11月28日(金)の朝日新聞朝刊37面14版に「投票 行きますか」という記事が掲載されてます。この記事には、BNPパリバ中空麻奈さん、ラッパーのダースレイダーさん、ウェブマガジン代表の鈴木耕さん、そしてブロガーにして作家のはあちゅうさんの意見が掲載されているのですが、興味深いものもあるとともに、「単に粋がっているだけじゃないの?」と疑いたくなるものもありました。
4人のなかで最も立派だと思ったのが、ダースレイダーさんの意見でした。一部だけ引用させていただくと、「争点は政治家ではなく、投票者が各自で決めるものです。抱えている課題も関心もみんな違うし」。まさにその通りであり、私が何を付け加える必要もないでしょう。
これに対し、はあちゅうさんの意見には愕然としました。「政治が自分の生活を変えてくれるとは思わない。けど、投票の義務感は感じる」、「今回の選挙の争点って何ですか。今の日本にとって何が最も大事な政治課題なのか、分からない。選挙なんてどうでもいい、というのが率直な気持ちです」などと続きます。「分からない」とか「どうでもいい」と思っているなら(これもどうなのかとは思いますが)「今の政治は『つまんない口だけ男』みたいですよね」などと軽口を叩いてもらいたくないものです。聞く人によっては「ふざけるな!」と返すことでしょう。私自身がそう思ったくらいです。選挙に行かなければよいだけのことですが、ならば政治に文句を言うな、ということです。
考えてみればすぐわかることですが(株主総会なども考え合わせるとよいでしょう)、投票に行かないということは、自分の意思を示さないことです。従って、選挙の結果がどのようになろうが、その人はただ結果に従うということを意味します。言い換えれば、選挙に関して、あるいは今後の政治に関して白紙委任状を出したようなものです(あるいは、とにかく何円を払うと手形を振り出したようなものかもしれません。手形は転々と人から人へ移ります)。決定などの際に、自分は何らかの意見を出せるのに何にも出さずにおいて、後になってからあれやこれやと騒ぐ人は、誰が見ても困った人でしょう。
勿論、選挙権を行使したくともできない人もいます。そのような場合については考慮なり配慮なりをしなければなりません。しかし、選挙権を行使できるのであれば、すべきです。しないのであれば、政治なり経済なりがどのような結果になっても自分は甘んじて受ける、というくらいの覚悟が必要です。そうでなければ「甘ったれるな!」という言葉で片付けられます。
上の記事で鈴木さんの「解散総選挙に大反対」という言葉は理解できなくもありませんが、「正直いって、今回の衆院選はまったく投票したくないですね」という言葉もどうなのかと思います。結局は「大反対だけど、やっぱり行きます」ということになっていますが。
解散の是非については様々な見解があることは承知しています。しかし、憲法学でも議論はあるものの、解散については実質的には内閣がその時の政治的判断で自由になしうると考えるのが通説であり、実務でもそうなっています。いわゆる7条説です。つまり、衆議院で内閣不信任決議案が可決された場合(第69条)は当然として、それ以外の事柄を理由とする解散が認められる訳です。それなら、有権者は時節の様々な争点を念頭に置いて投票という形で意思表明を行えばよいのです。
実際には、一票の格差問題など、選挙制度自体に歪みを抱えていることから、国民の意見がどれだけ結果に反映されるか、不透明な部分が少なくありません。また、立候補にもそれなりの多額の金がかかることから、若い世代の登場が難しくなっているという問題もあります。しかし、だからといって最初から選挙権の行使の機会を放棄すれば、話は終わってしまいます。無責任ここに極まれり、とまでは言いませんが、主権者としての自覚がなさすぎる、と評価することはできるでしょう。
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まだ私が大分大学教育福祉科学部の講師であった頃のことですが、2001年3月1日付で私のサイトに掲載した「選挙と投票率」という文を、再びここに掲載しておくこととします。
「最近のことに限った話でもないのですが、日本の政治状況をみると、倦怠感、空しさ、無意味さを感じるという方も多いのではないでしょうか。相変わらずの金権体質、国民・住民そっちのけの姿勢など、原因を挙げるのであればきりがないほどです。そのことが、最近の選挙における投票率の低下につながっているという印象を受けます。
このような状況に危機感を覚えるのは、私だけではないはずです。投票率の低下は、選挙に無関心な層が増えているということですから、それだけ、政治と国民・住民との距離が離れていくことになります。そうなると投票率が低下し、距離も増大するという悪循環に陥ります。従って、民主主義の成立・存続にとっては、徐々に迫る深刻な危機である、ということになります。別の言い方をすれば、理由の如何にもよるのですが、選挙権を行使しうる者が行使しないということは、この者が国民・住民としての立場を放棄する、あるいは無条件で現状を追認するということを意味します。
このような状況を放置してよいのでしょうか。
2001年2月25日、大分市議会議員選挙が行われました。その日は大分大学で前期日程個別学力検査(入試のことです)が行われたため、20日の不在者投票を済ませました。市議会議員選挙であれば選挙公報は配布されないのでしょうか。私は、候補者が掲げる政策などを知ることができないまま投票に臨まなければならないのです。不在者投票は2度目でしたが、前回がどのような状況であったか、よく覚えておりません。
1997年4月、当時の大分大学教育学部に奉職してから、私は、3度、選挙についてのコメントを求められました(選挙がらみの犯罪などについても求められたことがありますが、今回の趣旨から外れますので除外します)。おそらく、私が大分大学において日本国憲法の講義を担当しているということに由来するのでしょう。そのうちの2度は、大分放送の記者氏やカメラマン氏が研究室に来訪されました。その時に私が話した内容は、夕方のニュース番組で放映されているはずです。そして、3度目が、今回の大分市議会議員選挙でした。朝日新聞大分支局の記者氏が、2001年2月19日、研究室に来訪されました。政治学を専攻している訳でもないので、適切な内容の話をしえたかどうか、私にもよくわかりません。既に、このホームページにも掲載しておりますが、朝日新聞2001年2月22日付朝刊大分10版27面に掲載された『選択 大分市議選模様 下 投票率 盛り上がらぬ「激戦」 運動転換へ模索の陣営」より、再度、私のコメント部分のみを再録しておきます。
『組織主導の選挙が主流を占めると、組織にかかわらない有権者が「勝手にやってくれ」と選挙離れを起こす。有権者の無関心が投票率を下げ、さらに無関心となる悪循環になる。議会のオール与党化が拍車をかける』
『投票率の低さは、組織候補にとって当選しやすい「ありがたい」こと。市議会が何もしないと批判するのなら、まず投票する必要がある」
しかし、実際に蓋を開けてみたところ、今回の投票率は63.85%で、前回より2%下がり、大分市議会議員選挙としては最低の投票率となりました。
このことを知り、私は、複雑な気持ちに囚われました。国家公務員としての立場上、特定の候補者や政党を支持する旨のコメントをすることは許されませんし、私自身、その力がある訳でもありません。そのため、啓発を内容とするコメントくらいしかできません。それが不発に終わったのです。そして、選挙も終わり、私の発言は一過性のものとして忘れ去られるでしょう(仕方がないことですが)。
しかし、釈然としないのです。
何か事件があると、マスコミなどで報じられ、政治家、そして政治全体に対する激しい批判がなされます。その時には、関心が高くなるのです。
考えてみれば、これは或る意味でおかしなことです。例えば、政治家が収賄罪で逮捕されるなど、不正が明るみに出されたとします。その政治家、およびその周囲にある人々が悪いことをした、このことは厳しく断罪される必要があります。それにもかかわらず、こうした政治家が選挙で再び当選し、「禊は済んだ」などと主張しているのです。選挙区制度を採用する限り、やむをえないのかもしれませんが、私が問いたいのは、国民・住民自身の責任なのです。こうした政治家を当選させてしまう、いや、より精確に記すならば、こうした政治家に一票を投じる国民・住民の責任、そして、選挙に行かないことにより、結果としてこうした政治家の台頭を許す国民・住民の責任です。
このように記していけば、必ず、何らかの反論があるでしょう。
よく耳にする話として『選挙に行くとしても、魅力的な(あるいは投票したい)候補者がいない』という類のものがあります。しかし、これは全く理由になりません。おそらく、このように言う人間の多くが、例えば選挙公報などを読みもしないでしょう。あるいは、民主主義を軽く考えているのでしょう。候補者云々を言うのであれば、自らが立候補すればよい、とまでは言いませんが、もっとよく考えた上で言って欲しいと思うくらいです。
次に「どうせ何も変わらない」という類の話です。これなど全くナンセンスです。そのように思い込んだところで、どうにもなりません。たしかに、一票だけで何が変わるということはないでしょう。しかし、それが積もることによって、どうにもならない状況が生まれるのです。これこそ受身の姿勢でしょう。
憲法学的に言うならば、投票という活動は、参政権の行使の一形態です。参政権は、能動的権利の一つです。つまり、積極的に国政に乗り込んでいくという行為が認められる権利であり、国民である限り、年齢などの問題は別として、誰にでも認められる権利です。我々は、日本という国の方向性を定める最終かつ最高の権限を持っています。
『ブルーインパクト 風』というサイトがあります。以前は『インパクト21』という名前でした。参議院議員選挙の投票率を上げようという運動のサイトですが、その『参議院選挙の投票率向上に向けて』(啓発掲示板)に、私は、『選挙に行かない(棄権する)ことは自慢すべきことではない!』というメッセージを記しました(2000年12月26日16時13分)。全文をここで引用しておきます。
『国政への無関心、倦怠感が、何度となく聞こえてきます。しかも、今度は参議院選挙、ますます「選挙で何が変わるってんだい!」という叫びが高まりそうです。
中には、これはとくに新興住宅地などに住んでいる人に多いのですが、選挙に行かないことを自慢するかのような人もいます。
しかし、「寝ていてくれたほうがいい」発言ではないですが、選挙での投票率が少ないほうが、政治家や官僚にとってはありがたいことなのです。棄権したりする人は、その手にまんまと嵌まっているだけです。こんなばからしいことはないですよね。
何党を、誰を支持しようが、それは投票人の自由ですが、投票にも行かないで政治にあれこれ注文をつけたり、陰で文句を言ったりする人が多すぎます。こんな無責任な人に、国政に参加したりする資格はありません。そういう人が多ければ多いほど、日本は無責任国家になります。
そうならないためにも、選挙に行って欲しいと思います。』
最後に、本当の危機は、多くの人が『危機的状況にある』などと叫ぶ時期または段階のことではなく、それを通り越した段階、あるいは、多くの人に意識されない時期または段階のことではなかろうか、ということを指摘しておきたいのです。そして、そのことを講義の場などにおいて訴えていくことが、大学において法律学を担当する一国民・住民としての私の責務であると考えております。」