先程作業を終え、読める状態となりました。
御覧いただければ幸いです。
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私の「川崎高津公法研究室」に掲載している「行政法講義ノート」〔第6版〕ですが、第10回~第16回が読めないという状態になっています。
原因はわかりませんが、参照できないのは管理人たる私の責任であります。この場を借りてお詫び申し上げます。
月曜日の夕方までに、全て読めるようにいたします。
講義期間中の木曜日、東松山校舎での講義があるため、渋谷駅を7時18分に発車する急行清瀬行きに乗ります。
ところが、小竹向原駅でおかしなことが生じます。「これが東京メトロのサービスの質である」とは思いたくないのですが、とにかく不便ですし、時間が全く読めませんので、困っています。
毎週、同じ急行に乗っているのです。清瀬行きでは東上線方面に行けませんから、必然的に小竹向原駅で乗り換えなければなりません。ところが、日によって、有楽町線からの川越市行きに乗り換えることができることもあれば、清瀬行きが駅に到着して扉が開く前に、川越市行きが発車してしまうこともあります。
先週の木曜日は乗り換えることができました。しかし、昨日は乗り換えることができず、しばらく待たされた後に、和光市行きに乗り換え、和光市で東上線に乗り換えました。
電車が遅れているとかいないとかというアナウンスは一切ないので、急行清瀬行きは時間通りに走っているのでしょう。そうすると、有楽町線からの川越市行きがダイヤ通りに走っているかいないのか、という問題になりますが、乗ってみなければ小竹向原駅で乗り換えるか乗り換えられないかがわからないのでは、丁半博打と同じような話になってしまいます。実際に、これで賭け事をやっている人がいるのではないか、と思えてくるくらいです。
乗り換えられないのであれば、乗っている清瀬行きが止まってドアが開いている時に川越市行きが発車してしまっても、文句は言いません。しかし、乗り換えられたり乗り換えられなかったりするのでは困ります。日記で、今日は乗り換えられた、乗り換えられなかったと書いているくらいです。乗客の中には、この乗り換え一つが仕事などの行方を決めるという人も少なくないでしょう。困っているのは私だけではないはずです。駅ナカだのCMだの発車メロディだのにうつつを抜かしているより、乗り換え、接続のほうを明確にして欲しい、などと思ってしまいます。
私がよく利用する田園都市線では、例えば大井町線との接続について、行ってみなければその電車に乗り換えられるのか乗り換えられないのか、というようなことがありません。遅れていればアナウンスがなされます。場合によっては、先に到着しているほうが後に到着するほうを待ってくれていることもあります(決して少なくありません)。
もう一つ、東京メトロになってから、鼻濁音の発音ができない人の音声を使った自動アナウンスを使っているのは納得できません。舌足らずにも聞こえますし、何よりも汚く響きます。鼻濁音ができなくなっていることは、自慢できることではなく、恥ずべきことです。それだけ、我々が発音機能を失っていることに他ならないのですから。
このようなことを記している私は、勿論、鼻濁音をしっかりと発音できます。考えてみれば、最近の日本の歌手で、鼻濁音をしっかり発音できるなど、美しく発音しているのは、クラシックの歌手の方々ばかりですね。
以前、私のサイト「川崎高津公法研究室」には「待合室」というコーナーを設けておりました。そこで東急田園都市線途中下車シリーズを掲載し、全駅を取り上げました。
しかし、このシリーズを始める前から、田園都市線の駅を何回か取り上げています。大学院生時代に通学路線としていたこともあり、大分大学時代にも、川崎に帰るとよく利用していたのです。青葉台東急スクエアにあるブックファーストに通い始めたのもこの頃からです。当時、私が最初に購入したデジタルカメラ、Sony Cyber Shot DSC-P5を持ち歩き、所々を歩いては撮影し、このコーナーに掲載しました。その中で、長津田駅を取り上げた回が、途中下車シリーズにふさわしい内容となっていると思われました。そこで、少し狡いやり方かもしれませんが、過去に「長津田駅周辺」として4回に分けて掲載したものを統合し、東急田園都市線途中下車シリーズの第5弾として、別室19として、2010年10月30日から2010年11月28日まで掲載しました(ちなみに、第1弾は三軒茶屋で、高津、池尻大橋、桜新町の順でした)。
今回、このブログに再掲載をいたしますが、撮影日が2003年12月30日ですので、現在の様子とはかなり違うかもしれません。少しばかり時間を遡ってみたということで、御了承ください。写真をクリックすると拡大します。過去の掲載については、以下、それぞれ注記しております。なお、再掲載にあたって一部を修正したほか、変わったことについて私がわかる範囲で注記も加えております。
(以下は、第82回「長津田駅周辺(その1)」として、2004年1月10日に掲載したものです。)
2004年になって、再び横浜市の風景を取り上げます。但し、今回は、港でも中華街でも、山下公園でも元町でも、伊勢佐木町でもみなとみらいでもありません。
私のように、川崎市で生まれ育った人間であれば、ミナト横浜という一般的なイメージがいかに横浜の一部分しか捉えていないものであるのか、理解できるはずです。人口約350万人の横浜市は、たしかに東京湾に面しており、日本最大の港を抱えています。しかし、新幹線で新横浜駅周辺を通ればわかるように、横浜市の大部分は丘陵地帯です。狭い川崎市の半分以上が平野であるのとは対照的です。しかも、横浜市の場合、どの鉄道路線の沿線であるかによって、あるいはどの区であるかによって、受ける印象が相当に違います。
この写真は、横浜市の或る駅から徒歩で5分もかからない場所のものです。その沿線ではあまり見かけないと思われる銭湯がありました。道路の幅も狭いことは、おわかりでしょう。
答えを記しておきます。東京都町田市に近い、横浜市緑区長津田です。東急田園都市線で現在は唯一の緑区所在駅にして急行停車駅であり、JR横浜線の快速停車駅であり、横浜高速鉄道こどもの国線の起点駅でもあります。
さて、次の問題です。長津田は、どのように読むのでしょうか。 多くの方が「ながつだ」と読むでしょう。残念ながら違います。正解は「ながつた」です。横浜市の港北区、都筑区、青葉区および緑区の地域によく見られる読み方です。例えば、港北区にある高田は「たかた」、都筑区の東山田、南山田、北山田(いずれも、かつては港北区でした)の場合は「やまた」です。ちなみに、川崎市出身の私にはうまく再現できないのですが、地元の人は、「たかた」、「やまた」、「ながつた」について、一種独特な言い方をします
実は、このように読む地名は関東地方に意外と多く、東京都港区の白金台は「しろがねだい」ではなく、「しろかねだい」です。世田谷区にある深沢も、本来は「ふかさわ」です。
長津田に関係のないことを記しました。本筋に戻りましょう。
大学院生時代、私は、通学のために 東急田園都市線・新玉川線(現在はいずれも田園都市線)を使っていました。その頃、溝の口駅に置かれていたミニコミ誌のようなものに長津田駅長が書いた(?)記事が掲載されていたのですが、この長津田駅周辺ほど、東急沿線で変化が見られない所も珍しい、という言葉が書かれていました。たしかに、大山街道の宿場町だったとは思えないような静かな街です。溝口とは異なります。もっとも、道が狭い、という点などには共通性が見られます。
私が長津田を訪れたのは、大学生の時以来です。しかし、何度か訪れているとは言え、中学生の時に一度ゆっくりと歩いた 程度であったので、この街のことはよく知りません。ただ、久しぶりに長津田駅を降り、周辺を歩くと、田奈駅寄りにあった踏切が消滅し、いくつか高層マンションが建っていることに気付きました。溝の口駅周辺や青葉台駅周辺などと比べれば変化に乏しかった街なので、これには少々驚きました。
しかし、路地に入ると、行き止まりの道などが多く、このあたりに田畑が多かったことがわかります。実際、今回は掲載できなかったのですが、野菜畑なども点在しています。
長津田駅の北口から恩田・あかね台・こどもの国方面に少し歩くと、このような坂に入ります。ここを歩くのも中学生の時以来です。下り坂に入ったところの左側にマルエツ長津田店があります。さらに進むと長津田厚生病院があり、横浜高速鉄道こどもの国線のガードを越えていきます。今回は行かなかったのですが、こどもの国線がまだこどもの国協会の路線であった頃(業務は東急に委託)、ガードのあたりにはほとんど住宅地がなく、広々とした農地などが広がっていました。その北側には、現在、あかね台の分譲地が展開しているはずです。さらに歩くと、横浜高速鉄道になってから開業した恩田駅があります。
以前からあるマルエツ長津田店の裏です。いつの間にか、こんなマンションが建っていました。建設年代などがわからなかったのですが、驚きました。ここには何があっただろうか、などと考えながら歩いていたのですが、何しろ、今(と言っても2003年12月30日の時点ですが)から22年前に一度歩いただけですし、表通りから少し裏に入ったようなところは知りませんので、結局、思い出せないままに終わりました。大きな畑が広がっていたのでしょうか。それとも、住宅地が広がっていたのでしょうか。何かの工場があったのでしょうか。かなりの面積であっただけに、気になりました。
マルエツ長津田店の裏のほうから、先ほどのマンションの南側に出ました。あまり広くない道路の反対側(南側)には、こうした民家が幾つも存在します。柑橘類の木が庭先に大きく育っていて、実をつけていました。このあたりは、私が育った川崎市高津区の1970年代から1980年代、とくに坂戸あたりの雰囲気を思い起こさせます。
もっとも、田園都市線の溝の口駅から長津田駅までは、昭和41年(1966年)になってから開業した区間で、梶が谷駅周辺、あざみ野駅から江田駅にかけての地域などには、本当にここが首都圏なのかというような空間が残っていました。今でも、所々に残っています。横浜市営地下鉄の中川駅、新羽駅などの周辺もそうでした。しかし、現在、どこの駅前であっても、かなりの大きな変化が見受けられます。その代表格は溝の口駅です。しかし、長津田駅周辺は、高層マンションなどが建つようになったとは言え、基本的な変化がほとんどありません。その意味で貴重な場所です。
さらに歩き続けたのですが、その様子については、機会を改めて。
(以下は、第83回「長津田駅周辺(その2)」として、2004年1月17日に掲載したものです。)
長津田は、かつての大山街道の宿場町にして田園都市線の急行停車駅とは思えない、静かな街ですが、ここにも高層マンションが建ち並ぶようになったのは、時代の流れでしょうか。
マルエツ長津田店の裏からこの道に出ました。まっすぐ行くと横浜高速鉄道こどもの国線の線路があるのですが、ここからではよく見えません。北側(写真では右側)の高層マンションと南側とでは対照的な風景となっています。 このあたりは、かつて畑が多かったのでしょう。とにかく道が入り組んでいて、しかも行き止まりも多いのです。 道をまっすぐ歩くと、自然に左に折れます。こどもの国線に沿うように歩くと、こんな住宅地になります。
私が幼い頃、川崎市の高津区や中原区でも、こうした狭い道に一軒家や木造アパートが所狭しと建ち並んでいました。多摩区宿河原にある神奈川県立多摩高校の付近も同様でした。左側は、どうみてもアパートや貸家なのですが、今は誰も住んでいないように思えました。ただ、撮影したのが2003年12月30日でしたので、時期のせいかもしれず、よくわかりません。
別の角度からアパートなどを撮影してみました。雨戸などが完全に閉まっています。もう誰も住んでいないのか。近々取り壊すのか。少し気になりました。単に、住んでいる人が帰省か何かでどこかへ出かけているのか。
長津田駅から田園都市線の下り各駅停車に乗って二つ目のすずかけ台駅を降りると、東京工業大学すずかけ台キャンパスがあります。駅は町田市にあるのですが、キャンパスは横浜市緑区にあります。少し前までなら、学生向けの賃貸にもってこいの物件だったでしょう。バブル期以降、こうした木造のアパートや貸家は、東京周辺からかなり消えてしまいました。しかし、田園都市線沿線を根気よく探すと、結構見つかります。ただ、急行停車駅から歩いて10分以内の範囲で簡単に見つけられるところは、おそらく、長津田周辺くらいでしょう。私は、田園都市線の急行停車駅(渋谷、三軒茶屋、二子玉川、溝の口、鷺沼、たまプラーザ、あざみ野、青葉台、長津田、中央林間)の全てを利用し、周辺を歩いたのですが、長津田以外の駅周辺では、あまりみかけません。
余談ですが、すずかけ台という地名は、東京工業大学のキャンパスが設けられたことに由来するそうです。ここでいうすずかけとは鈴掛の木、洋名でプラタナスのことです。これでピンとくる方もおられるでしょうが、この洋名はプラトンに由来します。プラトンが設けたアカデメイア(一種の学校で、英語のアカデミーの語源ともなっている)に鈴掛の木が多く植えられていたそうです。
先ほどの所から、わかりにくくなっている道を、車や、反対側から歩いてきた(多分、マルエツかどこかへ買い物に行こうとする)東急の社員のコースなどから判断して歩いたところ、こうした畑に出ました。道路は狭く、撮影しようとすると車が来るので、少し困りました。もっとも、デジタルカメラを持ちながらこういうところを歩き、撮影しているような人は、そう多くないと思いますが。
奥のほうにマンションができているので、相当に対照的なものとなっています(ちなみに、一番奥のほうに見える高層住宅は、駅の南側に建っています)。バブル期前まで、溝の口駅周辺などを初め、田園都市線沿線ではよく見られた光景です。しかし、今は難しくなっているでしょう。ここまで来て、私は急に懐かしさに囚われ、うれしさも感じました。まだ、長津田らしさが残されていたのです。それだけでなく、高層住宅がなければ、もっといい風景なのだけど、とも思いました。今は消えてしまいましたが、中学生の頃、あざみ野駅と江田駅の間に、これが本当に横浜市なのかと思えるほどの田園風景(山の中の曲がりくねった小路)が見えたのですが、その風景も思い出しました。
こういう農地に、宅地並みの課税をしようという政策の愚かしさを、私は全く理解できません。勿論、耕作をしていなければ話は別なのですが、都市にこういう緑があるからこそ、住みやすさがあるのです。緑地の大切さを理解できていない都市計画で、人間がおかしくなっているのではないか、とすら思えてきます。そんなことを税制がバックアップしているのです。
先ほどの畑の西側に、無人の野菜販売所がありました。大根、人参、里芋などが売られているようです。中原区の下小田中か井田杉山町にも、こんな販売所がありましたが、今はどうなっているのでしょうか。市場に出るとすると、横浜市緑区産として売られるのでしょうか。今はどうかわかりませんが、このあたりは田奈農協のエリアでした。
同じ畑を西側から撮影したものです(つまり、奥が東側となります)。この日は、年末と思えないほど暖かく、歩くのも楽でした。そして、こうした風景を見つけて、たとえ面積が狭くとも心が和む場所があることがわかりました。
そういうことで、もう一枚です。この畑がなくならないことを祈るばかりです。
この後も歩き続け、駅の南側に出たのですが、それについては、機会を改めて。
今回の分を作りながら、一度、このホームページで田園都市線各駅停車めぐりシリーズでもやってみよう、などと思いつきました。私が小学生の頃、既に倒産している出版社が東急東横線や田園都市線(当時は大井町からすずかけ台まで)、小田急線、西武池袋・秩父線、西武新宿線などの各駅を紹介する本を出していました。それにならって、という訳でもないのですが、渋谷から中央林間までの各駅周辺を歩くのも面白いと思ったのです。
ただ、これを実現するには、幾つもの壁があります。少しあげてみますと、まず、私が大分に住んでいることです。次に、どの程度の予算が必要かということです。そして、まだ利用したことのない駅(宮崎台、宮前平、江田、市が尾、田奈、つくし野、すずかけ台、南町田)があり、地理的な面で不安があることです。
かつて田園都市線だったということで大井町線各駅停車シリーズも面白いのですが、こちらになると地理的な面での不安がもっと広がります。下神明、戸越公園、北千束、緑が丘、九品仏、尾山台の各駅を利用したことがありませんし、大井町線沿線の道路はかなりわかりにくいのです。
(追記1:2004年1月の段階で、既に「田園都市線各駅停車めぐりシリーズでもやってみよう」などと書いています。私は大分大学教育福祉科学部の助教授でしたが、大東文化大学法学部に移ることが決まっていました。そうでなければ、このようなことを書かなかったでしょう。そして、2010年4月より、田園都市線を通勤路線として使うようになり、同じ年の5月から東急田園都市線途中下車シリーズを始めました。これは2012年10月20日に完結しました。そして、2011年7月30日に東急大井町線途中下車シリーズを始めました。こちらは、このブログに移行して2015年9月18日に完結しました。なお、「東急大井町線途中下車(14) 大井町駅 その3」では2011年8月6日から始めたと記しておりますが、7月30日が正しいので、訂正いたします。)
(追記2:田園都市線および大井町線の未利用駅は、大分大学教育福祉科学部に在籍していた頃の話です。2006年6月29日、田奈駅を最後に、東急の鉄道線全駅を踏破しました。)
(以下は、第87回「長津田駅周辺(その3)」として、2004年2月14日に掲載したものです。)
長津田駅の北側から南側に移る時に写しました。横浜高速鉄道こどもの国線、東京急行電鉄田園都市線、JR東日本横浜線の上を通る道路(跨線強)から西側(成瀬、つくし野方面)にある、面積としては小さな畑です。しかし、こういう、何気ないような所が好きなのです。懐かしさを感じますし、気分も和んでくるからなのです。
先ほどの畑から少々北へ方向を変えて撮影しました。私が中学生の頃は、ここまで住宅が多くなかったような気がします。しかし、こどもの国線に沿って、奥の恩田やあかね台などにも住宅地が広がっています。変わらないのは、こどもの国線が単線であるということだけです。そのこどもの国線も、以前はこどもの国協会が東急に運営を委託していた路線で、独特のマークを付けた、冷房のない2両編成の電車がのんびりと走っていたのでした。たしか、その頃の終電は18時台でした。横浜高速鉄道になってからは、2両編成であるという点と東急に運営を委託しているという点では変わらないものの、冷房つきの新型車が走る通勤路線に変わりました。終電の時刻も変化し、途中に恩田駅ができました。
長津田駅の南側に移ります。相変わらず狭い道です。何となく、駐車場から奥の住宅地のほうを撮影してみました。やはり、以前はここまで住宅が多くなかったような気がするのですが、記憶違いでしょうか。もっとも、長津田駅周辺を訪れたのは大学生の時以来ですし、ゆっくりと歩いたのは中学生の時以来です。それに、当時の東急長津田駅長が書かれていたように、田園都市線で長津田ほど変化の見られない所も珍しいのです。気付かなくても仕方がないということにならないでしょうか。
先ほどの駐車場とほぼ同じ地点から、方角を変えて撮影したものです。小さいながらも鬱蒼とした場所です。しかし、何となく、神秘的、というと大げさかもしれませんが、秘密が隠されているような気がしませんか。私は、川崎市にしては緑の多かったところで育ったせいか、緑に囲まれた場所を好みます。できれば、こうした場所に、独りで長い時間を過ごしたいと思っているのです。
今度は、同じ道を歩きながら逆の方向を見ます。手前の線路はJR横浜線で、右側にホームがあります。今は8両編成で走っています。上の写真で見えるホームは田園都市線のものです。見えにくいかもしれませんが、4番線に8500系の下り各駅停車中央林間行が停車しています。10両編成です。私が子供の頃の田園都市線といえば、3両か4両で、不定期列車もあるという、今では考えられないようなものでした。当時は大井町からすずかけ台まで走っていたのですが、梶が谷止まり、鷺沼止まりの電車も多かったのです。それが、営団半蔵門線に乗り入れ、10両編成になり、2003年3月19日からは東武伊勢崎線経由で日光線の南栗橋に乗り入れるようになったのです。中央林間から南栗橋までは約100kmで、相互乗り入れ区間としては日本最長、と言えなくとも上位に入ることは間違いありません。さらに、現在は東武伊勢崎線の久喜駅へも走っています。
長津田駅の建物を南側から見ています。駅の中、とくに田園都市線とこどもの国線の駅の部分を歩いていると、かなり立派な駅に感じられると思われます。少なくとも、大分県内で長津田駅構内ほど店などが多い駅となると、大分駅と別府駅くらいしか思い浮かびません。ホームの上に改札口などがある橋上駅舎ですが、関東では珍しくなくとも、九州などでこれほどの駅を探すとなると大変です。
(以下は、第126回「長津田駅周辺(その4)」として、2005年1月11日に掲載したものです。)
前と同じような写真ですが、長津田駅の南側です。昭和41年、大井町線が溝の口駅から延長開業した時は、長津田が終点でした。開業からしばらくの間は古い車両も多く、東急のほぼ全形式を見ることもできたので、見ているだけでも楽しい路線でした。
長津田駅の南口です。駅前広場で、タクシーが止まっています。左側にはバス停があり、ここからこどもの国や柿生駅方面へのバスが出ていました(注記:この記述は東急バスの路線を念頭に置いたものですが、既に廃止されています)。
いつも思うのですが、長津田は、本当に大山街道(今の国道246号線)の宿場町だったのかと首を傾げたくなるような街です。どのあたりに宿場があったのかわかりませんが、同じ大山街道の宿場町だった溝口が今も非常ににぎやかで、川崎市では川崎駅周辺に次ぐ規模の街であるのに対し、長津田駅周辺は、やや大げさに言うならば他の駅よりも時間の流れが遅いような感じすらします。しかし、それだからこそ、私は長津田駅周辺を好むのです。買い物などでは青葉台で止まってしまうのですが、時間があれば、長津田駅周辺を歩くと、また何か発見があるかもしれません。もっとも、こどもの国線の恩田駅のほうでは、長津田ニュータウンの開発があったとのことですが。
(注記:上の写真に写っているパチンコ店は、既に閉店しています。)
長津田駅は橋上駅舎(線路の上にかかる跨線橋にある駅舎)となっているので、駅の中を通って再び北口へ出ました。撮影当日はあまり調子がよくなかったのか、ピンボケの写真が何枚もあり、残念でした。あれから、最初の掲載時で1年以上経っていますが、腕は上がっていません。情けない限りです。
完全に焦点がぼやけていて恥ずかしい限りですが、長津田駅の中です。外に比べて駅の中が立派という所は意外に多いものですが、その代表が長津田駅でしょう。この写真には登場しませんが、左側にJR横浜線の長津田駅があります。右側のこどもの国線ですが、現在の天皇陛下が皇太子時代に結婚なされた時にこどもの国がオープンし、こどもの国への連絡のために、戦時中の軍事路線を使って開業した路線で、最近までこどもの国協会が保有していました。現在は横浜高速鉄道が保有していますが、運行などは東急に委託され続けています。
これから青葉台へ出ようとしていました。止まっていたのは東武30000系です。半蔵門線の清澄白河止まりとなっています。東武の車両ですが、東武伊勢崎線・日光線に乗り入れない運用もあります。ちなみに、私は、この写真の撮影当時、まだ半蔵門線の終点である押上までしか乗ったことがなかったのでした(2015年11月26日現在も浅草~草加および押上~曳舟しか利用したことがありません)。
(注記:この31601F+31401Fの10両編成は、50050系がデビューしてから、田園都市線・半蔵門線に乗り入れなくなりました。しばらくして東上線に移籍しましたが、現在はどの路線を走っているのでしょうか。現在、田園都市線で見られる30000系は、31606F+31406F、31609F+31409Fです。)
長津田の読み方ですが、地元の人は、最後の「た」をほんの少し長めに、力を抜くように発音する、とのことです。これは、川崎市出身の私でも真似ができません。他の例として、「やまた」と読む山田、「たかた」と読む「高田」があります。もっとも、このような発音が聞かれなくなってきたことも事実です。
ちなみに、隣の駅の田奈ですが、これはこの地域の恩田、長津田、奈良町をまとめた言い方です。しかし、現在、恩田および奈良町は青葉区、長津田は緑区となり、この付近の一体性が感じられない区分けとなりました。
電車を見送り、ホームに立っていたら、東急多摩田園都市50周年のステッカーが貼られた8500系が来ました。4番線に止まりましたので、急行電車の待ち合わせをしていたはずです。8500系は1975年にデビューしましたので、もう40年も走っていることになります。ローレル賞を受賞したもので、初期の車両の車内にはそれを示したエンブレムが貼られています。椅子の座り心地がよいこともあって、私が最も好きな車両の一つです。今の東急車には赤帯が貼られていますが、1970年代に赤帯をつけたものは8500系しかなかったので、登場時は地味ながら引き締まったデザインにひかれました。元々が新玉川線(2000年に田園都市線に編入)用のもので、一時東横線でも走っていましたが、現在は田園都市線・東京メトロ半蔵門線の主力として、一部は大井町線で走っています。前面の下部にスカートをつけていますが、これは最近取り付けられたものです。
南栗橋行が来ました。大学院生時代の5年間は 田園都市線を使っていたので、撮影当時、南栗橋行や東武動物公園行などを見ると違和感を覚えました。東武線内は通勤準急か区間準急となりますが(あくまでも当時の話です)、それでも中央林間から南栗橋まで2時間以上かかるようです。
さて、長津田での散策を終えましたので、これから青葉台へ行き、本屋などに寄って、それから帰ることとしましょうか。
小テストでは六法の参照を可とします(六法がなければ解答できない可能性もあります)。持参しなかった場合は、何も参照せずに解答してください。
11月30日以降に扱う内容を記しておきます。
教科書の項目番号:2.1.1 2.1.2 2.1.3 2.1.5 2.1.6 2.1.7 2.1.8 2.1.9 2.1.10 2.1.11 2.1.12
2015年11月20日、国学院大学での講義を終えて、近くの氷川神社を通りました。その際に撮影した写真を掲載しておきます。
2015年11月9日17時31分32秒付で「中央大学法学部が都心に戻る?」という記事を投稿しました。同日付で、中央大学の公式サイトに中長期事業計画(Chuo Vision 2025)が発表されていました。
2025という数字は、中央大学の創立140周年を意味します。すなわち、今年(2015年)は130周年なのです。
何と言っても法学部の都心回帰が話題となっておりますが、中長期事業計画は大きく3つの柱を打ち立てています。最初にあげられているのは、八王子市東中野の多摩キャンパスにいくつかの新学部を創設することです。その次に法学部の移転があげられており、しかも「第一候補」とされているのですが、思考の順番は逆であったことでしょう。
同大学の法学部の出身であり、現在は大東文化大学法学部の教員である私としては、法学部の移転などに関心があります。これは、単なる移転ではなく、キャンパスの統合も含まれています。現在、文京区に後楽園キャンパス、新宿区に市ヶ谷キャンパス(市谷本村町)と市ヶ谷田町キャンパス(市谷田町)があり、これらを後楽園キャンパスに統合するようです。そこへ、多摩キャンパスから法学部を移し、市ヶ谷キャンパスから法科大学院を移す、ということなのでしょう。市ヶ谷キャンパスがやや不便なところにあるようですし(実は一度も行ったことがありません)、法学部、法学研究科および法科大学院が別々の場所にあることにそれほどの有意義性はないと思われるので、統合は望ましい話でしょう。後楽園キャンパスは、JRの駅から多少離れていますが、地下鉄が4本集まっており(後楽園駅に丸ノ内線と南北線、春日駅に三田線と大江戸線)、利便性は高いのです。
ただ、図書館については気になります。蔵書数の関係で、多摩キャンパスにある中央図書館でも別置扱いになっている文献が多いのです。また、今年から市ヶ谷田町キャンパスの図書室を時々利用するので多少はわかるのですが、分置されている場合も少なくありません。これらをどうするのかは、決して小さくない問題です。
それにしても、後楽園キャンパスの強化については、随分と思い切ったことをしようとしている、と感じます。今や、中央大学の看板は法学部と理工学部、そして大学院法務研究科(法科大学院)です。法学部の場合は、中央大学が英吉利法律学校として創立されたという歴史的な理由がありますが、理工学部の場合は後楽園キャンパスから移転しなかったという部分が大きいのではないかと考えられます。
キャンパスについて気になる点を記しておきましょう。まずは市ヶ谷キャンパスと市ヶ谷田町キャンパスです。市ヶ谷キャンパスには大学院法務研究科、市ヶ谷田町キャンパスには大学院国際会計研究科(専門職大学院。アカウンティングスクール)および大学院公共政策研究科がありますが、中央大学は、明確に後楽園キャンパスと多摩キャンパスに集約化する方向性を打ち出しています。法務研究科は後楽園キャンパスに移すのでしょう。また、市ヶ谷田町キャンパスにある二つの研究科のうち、公共政策研究科は2016年度以降の学生募集を停止しますし、国際会計研究科は2017年度以降の募集を停止します。そのために統合するのでしょうが、どこかへ売却することとなるのでしょうか。
そして、現在のメインとなっている多摩キャンパスです。複数の学部を新設すること、総合政策学部(この学部は、私が在学していた頃には存在していなかったものです)を改組すること、この双方を結びつけることが示されていますが、看板となる学部が出るのでしょうか。ただでさえ、日本の学位は多すぎ、他国で通用しないようなものも少なくないのです。学問の多様化や社会の変化と、学部の多様化は、全く別個の問題です。