彼岸入 朝顔を染め 無垢の青
馬糞 Bafun
ああ、紫の何と美しいことか。
彼岸のすがすがしい風と光に誘われて、旅に出ようと心
に描きながら、深く眠ってしまった。
今年の彼岸花は、紫の朝顔で終わるのだろうか。
それにしても、25℃がこんなにも肌寒いとは・・・
彼岸とは、あの世のことである。
あの世があるから、彼岸という言葉も生まれた。
紫は大和の色である。
神聖を尊ぶ精神を表す。
清廉潔白、穢れを嫌い、清めてことを行う。
神に恥ずることなき秩序を人の道として重んじる。
それが、大和紫の心である。
しかし、この世の大和には、崇高な精神が色あせてい
る。
大和の紫は、21世紀に花開く大輪の花の色であろう
のに。
仏陀の光は黄金であるが、仏陀の愛した蓮の花の色は、
紫ではなかったか。
キリスト教の人間観は、人間罪の子という意識がある。
汚れた自分を神の愛でお許しくださいと。
しかし、神の許しに努力と生まれ変わりの決意という
信仰が見失われると、悪行三昧、罪を問われたら許しを
請うというご都合主義の地獄に陥る。
キリスト教に言う罪とは、人の未熟を意味する。
神の愛とは、人の未熟を見守り、我のごとくなれ、と
育む思いにある。
だから、愛には神に至るまでの無限の発展段階がある。
未熟とは認識の狭さである。
自己中心は人の未熟である。
その未熟故に、人を傷つける。
罪の意識に目覚めたとき、人に与える愛こそが未熟を
克服する方向性であることを悟る。
人は生かされている。
生かされているということは、いかに人を生かすかと
いうことが人生の課題になる。
生かすためには、人の未熟を受け入れる許しがなけれ
ばならない。
さらに、生かすだけの認識力を高めなければならない。
それが、キリスト教の信仰である。
キリスト教に限らない、信仰の本質であろう。
もっとも、現代のキリスト教は堕落して、あの世のこ
とを否定する唯物論に堕落しているのではあるが・・・。
《感性と科学の融合》
紫に輝く日本の神々は、言葉ではなく、光を見て人の
道を悟れという一途さがあるように思う。
それもまた感動である。
九州男児というのが、無言で阿吽の呼吸を求めるのも、
神道の気質というべきかも知れない。
そこが、欧米に乏しい感性である。
美意識もまた、そうしたものではないだろうか。
しかし、感性には時間の観念がない。
時間的な因果の法則を無視する傾向がある。
そこが、この世では弱点になる。
なぜなら、この世は、科学という手探り手法が一番確
かな方法だからである。
手探り手法とは、論理的、理性計算的捜索手法である。
美しいものづくりに優れた日本の強さは、伝統の感性
と異質に学ぶ科学的手法の融合の上に生まれたというべ
きであろう。
しかし、忘れてはならない。
科学とは盲目であり、危なっかしい手探り的探知方法
であることを。
プロのめくらは、手探りだけで探知しているのではな
い。
五感を超えた知覚を身に着けているとしか思えないで
はないか。
科学もまた、そのようでなくてはならない。
科学的手法に欠かせないのは信仰であるということで
ある。
心ある政治家よ、こういうことも理解しなければ新し
い日本を形作ることはできない。
Bafun