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+ 禅寺の紅葉狩り・・・ 禅の真髄と禅のビジネスモデル

2007年12月01日 07時45分00秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 

 

  禅寺に   もみじ葉追いて   分け入りぬ

 
     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 聖福寺の紅葉狩り

 

 博多には、名刹古刹が多い。

 いつもはさほどに人気もない寺町の裏通りに、聖福寺という禅寺

ある。

 古い門構えで塀の中にぽっかりと庭がある。

 しょっちゅう通り過ぎるが、滅多に中に入ることはない。

 

 ところが、紅葉が気になって、分け入った。

 この寺は、日本最古の禅寺だという。

 禅坊主もいない遺跡なのだろうか。

 言い値で請け負っているであろう庭園会社の社員が入り込んでいる

だけである。

 本来、修行僧がやるべき作務であろうに・・・。

 

 

 もっとたくさん木があっても良いのにと思うが、紅葉は美しかった。

 地元に、こんな紅葉の名所があったとは・・・

 

 

 

 

 

 

 

禅の修業

 座禅といえば、無念夢想を旨として、竹べらでパッシッとたたかれる

という不穏なしごきであるが、あれで、肩こりが取れるのだろうかと不

思議に思う。

 

 無念夢想というならば、寝ているに限る。

 現代座禅は、脳波をα波に整える修行だそうである。

 α波が出てくると、リラックスし、いいアイデアも出やすくなる。

 ところが、座禅では無念夢想であるから、アイデアはいけない。

 

 道元の悟りに問題があったのだ。

 心塵を払う反省行にこそ、本来の座禅の意義があった。

 ところが、心身脱落・脱落心身という、愚直な只管打坐という同音

異議の悟りにいたったらしいのだ。

 

 もちろん、厳しい修行としての意義はあったのだろう。

 禅には独特の純粋がある。


 しかし、仏陀の菩提樹下に開いた「宇宙即われ」の悟りのように、空

海が土佐の洞窟での瞑想で開いた、小宇宙即われの悟りのように、

心の塵を反省行で払い、さらに、潜在する心の宇宙を探求するのが

禅の極意である。

 

 都会のオアシスのように、一人静かに瞑想できる空間がほしいも

のである。

 
 建設ファンドのみなさん、本来の座禅に目覚めて、禅の空間を提供

するビジネスモデルに開眼しませんか。

 

                       J.D.Subunroco. 

 

 

 

 

 

 

 

2005年リバイバル(男女を神聖に)

⇒  http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/14eaba5d090502a267b3813d6e7fe789

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 黄金のイチョウ・・・ 「美と許し」 「教育刑論、社会防衛論の再評価」 「経世済民の倫理」

2007年12月01日 06時37分18秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

  千両も 万両もあり イチョウ花


     
馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 イチョウの木の葉の小判の美しいこと。

 秋の陽に輝く黄金の透明感は、ため息が出るほどに美しい。

 これが小判でもあったら、人々は奪い合うのであろうが、

皆が感動して通り過ぎて行く。

 

 美しさというのは独占できないものであるらしい。

 人は、なぜ、美しいと感動するのであろうか。

 美しさとは一体何のだろうか。

 

 星空の美しさも独占できるものではない。

 独占できなくても、ひと時の幸福感をもたらしてくれる。

 美しいということは実に不思議だ。

 

 美しさには透明感がある。

 美しさには純粋さがある。

 美しさには輝きがある。

 美しさははかなく、私利私欲がない。

 美しさには恐怖がない。

 

 そのように生きたいものだ。

 死を恐れず、

 純粋に尽くして、

 感謝して生きたいものである。

 

 美から学ぶ幸福には、恐怖心からの開放という要素がある。

 

 恐怖こそが、心を曇らせる。

 恐怖とは、自己保身の裏返しである。

 

 

 

 

 

 

裁き心を克服する刑罰論】 


 美には、裁き心がない。

 おぞましいものをさげすみ、裁こうとするものではない。

 なぜ、裁き心が生まれるのだろうか。

 正義感と言えばかっこいいが、憎悪の気持ちと裏表である。

 

 では、人を害するものを見て、いかにあるべきなのか。

 裁くなということは、他人の悪行を憎むなということである。

 憎しみは不幸な感情であるから。

 

 悪行に対して、個人で向かい合ってはいけないのではないか。

 力をあわせ、智慧を合わせて健全な社会から隔離するほかはない

のではないのか。


 信頼できる司法警察力を、今後大幅に充実するべきである。

 人々を犯罪と裁き心から守るために。

 

 その意味で、悪行である犯罪に対する刑罰の本質は、仕返しではな

く、犯罪予防と社会防衛としての隔離処分というべきかも知れない。

 十分に犯罪予防としての威嚇性もあるからである。


 隔離後も教育はなされるべきであるが、社会に対して害をなさない

と認められるまでは、隔離処分は継続する。

 罪刑法定主義では、絶対的不定期刑は許されないが、見直される

べきだろう。

 悪行の責任は、本人にあり、本人が反省することなくしては贖われる

ことがないからである。

 

 恐怖と裁き心を克服しなければ、幸福の生産はできないものである。

 

 経済活動とは、幸福を生産することである。

 だからこそ、「経世済民」が、経済の本義とされる。

 即ち、世の中を豊かに治め、人々を貧困と恐怖から救済することで

ある。

 

 そのためには、まず、己の心を豊かに治め、憎しみと恐怖から己の

魂を救わなければならない。

 経営者の心得であろう。

 これが、企業倫理に求められていることでもある。

 

 

             立憲女王国・神聖九州やまとの国

              梅士 Baishi

                      

                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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