禅寺に もみじ葉追いて 分け入りぬ
馬糞 Bafun
聖福寺の紅葉狩り
博多には、名刹古刹が多い。
いつもはさほどに人気もない寺町の裏通りに、聖福寺という禅寺が
ある。
古い門構えで塀の中にぽっかりと庭がある。
しょっちゅう通り過ぎるが、滅多に中に入ることはない。
ところが、紅葉が気になって、分け入った。
この寺は、日本最古の禅寺だという。
禅坊主もいない遺跡なのだろうか。
言い値で請け負っているであろう庭園会社の社員が入り込んでいる
だけである。
本来、修行僧がやるべき作務であろうに・・・。
もっとたくさん木があっても良いのにと思うが、紅葉は美しかった。
地元に、こんな紅葉の名所があったとは・・・
【禅の修業】
座禅といえば、無念夢想を旨として、竹べらでパッシッとたたかれる
という不穏なしごきであるが、あれで、肩こりが取れるのだろうかと不
思議に思う。
無念夢想というならば、寝ているに限る。
現代座禅は、脳波をα波に整える修行だそうである。
α波が出てくると、リラックスし、いいアイデアも出やすくなる。
ところが、座禅では無念夢想であるから、アイデアはいけない。
道元の悟りに問題があったのだ。
心塵を払う反省行にこそ、本来の座禅の意義があった。
ところが、心身脱落・脱落心身という、愚直な只管打坐という同音
異議の悟りにいたったらしいのだ。
もちろん、厳しい修行としての意義はあったのだろう。
禅には独特の純粋がある。
しかし、仏陀の菩提樹下に開いた「宇宙即われ」の悟りのように、空
海が土佐の洞窟での瞑想で開いた、小宇宙即われの悟りのように、
心の塵を反省行で払い、さらに、潜在する心の宇宙を探求するのが
禅の極意である。
都会のオアシスのように、一人静かに瞑想できる空間がほしいも
のである。
建設ファンドのみなさん、本来の座禅に目覚めて、禅の空間を提供
するビジネスモデルに開眼しませんか。
J.D.Subunroco.
2005年リバイバル(男女を神聖に)
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