鐘の音を 深々と研ぎ 暮れてゆき
馬糞 Bafun
深々と冷え込みながら、年の瀬もあわただしく深まってきた。
寒いというのと、冷え込むというのはずいぶんと違う温度差である。
冷えるだけではない。
あまりの乾燥に耐えかねて、干からびた蛙のように鼻の奥の粘
膜が突っ張って風邪を引いた。
この乾燥に耐える方法はないものか。
蛙は水辺に住むこことにした。
仕方がない、アトランティスの理性に帰って加湿器を買うことに
しよう。
ああ、鼻の奥に両生類が住んでいたとは・・・。
年の瀬は 寺の石にも しぶきして
馬糞 Bafun
石灯籠がずれている。
それは静寂の趣であったろうが、
心せかれる年の瀬の流れにぶつかって、
残り少ないけじめの時間にしぶきしているように見える。
さて、この年を、何としたものか・・・
さてさて、大晦日までがけじめの時間である。
ああ、世間胸算用・・・。
【引きこもりという独裁者】
引きこもりの青年は、穴から出てくるだけで、親を落胆から救う
ことができるというのに。
そんなことには目もくれないのである。
そんなそぶりで、いたわってほしいのか。
自分はだめな人間だと、暗い心の闇で、周りを暗くする。
失敗しても失敗しても、また立ち上がろうとする青年をこっけい
だというのか。
何回やってもうまく行かなくても、また立ち向かおうとする青年を
いとおしいとは思わないのか。
やればできるという信仰が、青年を立ち上がらせるのだ。
周利槃特(しゅりはんどく)のように。
※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%88%A9%E6%A7%83%E7%89%B9
素直でないということが、すべての敗因である。
素直でなければ、どうして人間関係の海に浮かぶことができる
だろうか。
自我力で抗っても、他人を幸福にすることはない。
自助努力と自我力とは違うものである。
自助努力とは素直に習って努力するのであり、
自我力とは、他人を排して意固地になることである。
意固地な心から、どうして他人の喜びが生み出せるだろうか。
他人の幸福を生み出さずして、どうして心が晴れるだろうか。
引きこもりの青年たちは、周りの愛すべき人々を不幸にしてい
る独裁者である。
手出しのできない弱いものをいじめている悪人に他ならない。
反省し、改心し、人のために生きてみよ。
それが、人の生まれたことのけじめである。
この暮れの静かなところに行って、手を合わせて反省してみよ。
その心のけじめが、良い正月を迎えることであろう。
J.D.Subunroco.