すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

■『すぶんろこ』とは、コロンブスの逆転の発想

■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 千手のもみじ・・・ 修行としての人生選択に幸福あり

2007年12月26日 08時12分31秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 幸くあれと   千手を合わせ   もみじ咲き


   
馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 今はもう空を掃く冬木立になってしまったが、ついこの間には、

神々しくもみじが燃えていたことである。

 もみじ葉をみていると千手観音の沢山の手のようにも見える。

 京都に千手観音を見たのはもう三十年以上も昔、学生の頃だった。

 千手なんて、げじげじより大変ではないかと思ったものだが、

仏の救済の手が沢山差し伸べられているという意味の仏像だった。

 たしかに沢山の手が生えているのに、妖怪のようではなかった。

 祈りの姿というのは美しいものである。

 

 

 祈りとは、努力の姿である。

 努力なき祈りはない。

 

 努力なくして、良いことを願うなど身勝手であろう。

 祈りというべき努力は、修行にほかならない。

 人生はまさに修行である。

 修行とは魂を磨いて、魂の底にある輝きを解き放とうとする努力

である。

 

 

 適職とは何かとか、結婚できるだろうかとか、仕事はうまく行く

だろうかとか、知りたいと思うものであろう。

 だから、占いがはやるし、霊能者番組もはやる。

 

 しかし、適職という言葉自体が自己中心である。

 そのような発想からは、満足感も幸福感も得られないであろう。

 

 人生は修行である。

 

 修行としての仕事、修行としての結婚、修行としての日々の営

みの努力、そこに幸福に至る誠実な道がある。

 幸福は自分の手で直接自分の口に入れることのできない性質

を持っている。

 与えることによってのみ得られるものであると、教え伝えられて

きたことである。

 

 与えることの幸福、これを愛という。

 

 千手のもみじに、幸福の手紙が書きしたためられていたのでは

ないか

 

                         J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 

 ちはやぶる   神の千手の   もみじかな 


   
馬糞 Bafun

 

 

 

2005年リバイバル(木星探査)

⇒  http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/2816d51b4ef644e221c41651a672a06c

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする