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+ 処暑の雨・・・ スポーツ用品・用具の技術革新とスポーツ文明の視点

2008年08月25日 08時08分57秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 


 博多ごと 行水したり 処暑の雨 

 

   馬糞 Bafun  

 

 

 

  

 

 

  処暑を前に大雨が降った。

 汗だくの街ごと行水したような、熱さましの雨であった。

 処暑の日は豪雨かもという予想だったが、降らなかった。

 雨は降らなかったが、ずいぶんと涼しくなった。

 

 来週は二百十日、台風シーズン到来というカレンダーである。

 台風で行水すると、焼け石の街もふっと、われに返る。

 地球温暖化ではあるが、太陽の傾きは確実に秋に向かっている。

 

 

 

 

 

 

【道具の開発もスポーツか】

 

 スポーツに道具は欠かせない。

 その道具の出来、不出来で競技成果に差が出ることもある。

 スピード社の水着着用で新記録が続出し、オリンピックでも予想通り、

記録ラッシュとなった。

 

 選手の努力なしにはありえない成果ではあるが、水着の影響はあき

らかであろう。

 陸上でも靴の技術革新、ウェアの技術革新、エネルギー補給ドリン

クの開発などが記録を押し上げてきたことは疑いようも無いことである。

 

 すると、よい道具を使った選手とそうではない選手とでは、努力以外

の要素で結果が左右されるとすれば、不公平ではないかとも思える。

 

 では、一切、道具を使わないか、同じ道具で競技をさせるかというこ

とになる。

 

 しかし、そんなことが可能なのか。

 体質はともかくとして、どの選手も同じ条件で競技に臨めるわけでは

ないからである。

 

 すなわち、選手の肉体と精神と努力の成果だけで純粋に競えるのか

というと、そうはゆかない。

 4年間のトレーニングは、どれほどの人とサービスと道具のお世話

なったことか。

 素っ裸で走ったとしても、選手一人の成果ではないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 このように考えると、スポーツとは、競技選手のパフォーマンスを通

して発揮されるさまざまな文化や科学技術の結集として競われている

のだと考えるべきであろう。

 

 かつてのオリンピック競技は、音楽などの芸術を含めて競われてい

たという。

 そういえば、運動会でも単なる運動競技で構成されていたわけでは

なかった。

 一堂に会して、運動競技を中心として文化を競い合う祭典であると

考えれば、おおいに道具の科学的・芸術的開発競争を楽しむことが出

来るのではないか。

 

 

 

 

 

 

 道具の開発の話に戻そう。

 北京オリンピックの競泳でメダリストとなった選手のすべてがスピー

ド社の水着であったわけではない。

 逆に、400、800のフリースタイルをスピード社の水着で臨んだ柴田

選手は体を締め付けられたことが返ってマイナスだったのではないか

とも言われている。

 

 道具の開発は、スポーツに可能性と楽しみの幅を与えてくれる。

 それはおおいに推奨されるべきことである。

 しかし、道具が主役なのではない。

 スポーツは文化である以上、精神的価値の創造にこそ本質があると

いうべきである。

 

 日本チームとして戦うという意識が道具についてもあったならば、ス

ピード社の人気に左右されることなく、わがチームの技術力を代表して

戦うという姿勢があってもよかった。

 それも、気概であり、美意識である。

 

 道具についてまでナショナリズムにこだわるべきかは問題かもしれな

が、そうした仲間意識による気概もまたオリンピックの醍醐味という

きではないかということである。

 

 道具を開発する立場からは、選手と一体となって戦っているという

チームの意識と責任感が欠かせない。

 

 道具は最終的には選手の美意識とニーズを読み取って開発する

とが今後の課題となるであろう。

 道具開発者にも、選手と一体となってオリンピックに参加しているの

だという信頼関係が問われている。

 

 

 

 

 

スポーツ概念の文明化

 スポーツファッション、スポーツ倫理・哲学、スポーツ音楽、スポーツ

政治学、スポーツ経済学、文武両道の教育制度論、スポーツ心理学・・・

 
 スポーツの神聖を認める必要がある。

 スポーツを文明として再構築する必要がある。

 スポーツは強さをアピールするだけではない。

 スポーツは自分を表現する文化でもある。

 スポーツは自分らしさの表現でもあるのだ。

 

 総合文化・総合科学・総合産業・総合教育としてのスポーツの見直

しが今後の課題となるであろう。

 

 スポーツの概念は今後も多様な広がりを見せることであろう。

 そうなってこそ、生涯スポーツの楽しみもまた、単なる健康のためだ

けではなく、文化として国民に浸透するのではないのか。

 

 「これが自分色のメダルです」と言った、競泳バタフライ200銅メダ

リストの松田選手の言葉が印象的だった。

 競争の喜びは、単なる勝利にあるのではない。

 勝負に負けても、そこに敗利というものもある。

 敗利とは、自分らしさの発見であり、人事を尽くしたという達成感で

あろう。

 

 自分らしさの表現という競技の精神こそは、他に比較されがたいス

ポーツマンシップというべきではないか。 

 

           

                                梅士 Baishi    

    

 

 

 

 

 

 

 

 

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