ひと夏の 庭に無骨の 茄子下がり
馬糞 Bafun
やっと、天地の暑さも鎮まるというころ、台風の通り
道に水をまくような前線の雨が降っている。
まあ、本当に暑かったこと。
しかし、遂に、エアコンのスイッチは入らなかった。
地球温暖化の折、なんで自分だけ涼しくしていられよ
うか!
なんて暑さにうだりながら、氷と扇風機と蚊取り線香
でやり過ごしたことであった。
そんな猛暑に面壁したナスが、達磨のように、無骨に
下がっていた。
ふーっと一息をつくひと夏であった。
【岡目八目経済学】
法律学というのは、学問というほどの天然自然を見失
っている。
人為の創作物を文化というのはかまわないが、学問と
いうには値しない。
ましてや、愚かな憲法学者の「学問」を嫌というほど
みてきて、うんざり感を禁じえない。
まるで、公務員の暇を仕事に偽装するための、市民に
無益な方式仕事と良く似ている。
では、経済学とは何なのか。
小室直樹著「経済学をめぐる巨匠たち」の冒頭に、
「経済学の扱う対象は唯一、『近代資本主義』だけであ
る」と書いている。
ずいぶんと大胆で分かりやすい掴み方である。
アダム・スミスの「国富論」という古典経済学に始ま
って、マルクスだ、ケインズだという学説の優劣をどう
判断してよいのか、もつれた釣り糸の塊を見るようでは
ないのか。
岡目八目で見るに、経済とは、社会の需給バランス機
能である。
人間は人間関係として役割分担をして生きている。
それが社会である。
産業革命以来、その社会は国際化し、その規模を急拡
大してきた。
それだけに、需給バランスとしての経済は激動期を迎
え、大きな関心事となった。
この需給バランス方式としての資本主義とは、需給バ
ランスを消費者、供給者の取引自由にゆだねることだと
いえる。
すなわち、私有財産制度を基礎とする市場主義経済を
意味する。
その対極にあるのが、社会主義、すなわち、国有財産
制度を基礎とする計画経済ないし、国策経済主義である。
しかし、人は支配されることを嫌う。
やる気をなくし、生産性を失うから貧乏経済とならざ
るを得ない。
これが、社会主義経済破綻の原因である。
ところで、市場主義経済は、原則、国家が需給バラン
スを人為に操作することを許さないのであるから、「神
の見えざる手による調和」となるのが本則である。
それはあくまでも取引自由の原則にゆだねるのである
から、自由でなければ調和の原理は働かない。
果たして自由なのかということが問われ続けなければ
ならない。
世の中は往々にして自由を奪われるものだからである。
市場原理が働く環境保全、そこに経済学の探求すべき
課題がある。
自由でなければ、計画経済の要素が例外として働く余
地がでる。
そこにケインズ経済理論の意味があるのではないか。
日本の「バブル経済の崩壊」というのは、不用意に国
が金利操作で需給バランスを権力的に抑制したために起
こった悲劇であった。
長期不況期におけるゼロ金利政策もあまり功を奏して
いない。
自由の前提が壊れているところに、自由を当てにした
金利政策をしても効果が出るはずが無い。
借りて何をするというのか。
起業の自由を持つものがいなくなったのに、低金利で
貸しますよといっても悪い誘惑に過ぎない。
アメリカのITバブル崩壊からサブプライムローン崩壊
に至る経済危機の原因も、市場主義経済のアンバランス
ではなく、市場のバランス機能を十分に見極めないで、
官僚的な頭脳プレイで権力干渉したために引き起こされ
たアンバランスだったといってよいのではないか。
市場主義経済における資本とは、個人の生産意欲と価
値創造活動がその原点である。
だから、貧乏人でも市場経済を通して豊かになれる。
労働によって得られた利潤を蓄積することによって、
資本力を高め、借金に依存しないで先行投資をすること
ができるようになる。
ちなみに、経済活動は先行投資である。
対価を得る前に仕入れたり、コストをかけて生産した
りしなければならないからである。
先行投資であるからこそ、最初に資金が十分でないこ
とが多く、融資が必要となるのである。
お金はないが、価値生産をしようとしている者に融資
するのが銀行の本質的な役割である。
その役割を忘れたのが、現代の横着な銀行であり、だ
からこそ、市場主義経済の反作用として銀行倒産の危機
を迎えているのだといえる。
原丈二氏やムハマド・ユヌス氏のようなベンチャーキ
ャピタリストこそは、本来の銀行の精神を持つ経済人で
ある。
経済には貧困追放の目的意識がある。
経済には、人々を豊かにしたいという願いがある。
経世済民ということを忘れてはならないのである。
現代の銀行は経済の精神を忘れた拝金主義者、最も忌
み嫌われるべき守銭奴といってよいであろう。
市場主義経済にあって、権力は不用意に干渉してはな
らない。
国民が本当に自由という前提を持っているのかをよく
よく観察した上で、必要悪というべき市場干渉の政策を
考えることである。
現代に求められているサポートは、お金の無い価値生
産者に十分な先行投資ができるよう、本来の金融の選択
肢を与えることではないのか。
また、そうした経済の本質を教える教育も、国民教育
として求められているといえる。
梅士 Baishi