赤い鳥 竹田の子守唄
B面は「翼をください」
CD屋さんに行っても、レンタルCD屋さんにも無く、この唄が差別絡みの唄ということで1990年ころまでいわゆる「放送禁止(自粛?)唄」であったことを知ったのはつい数年前のこと。
自粛が緩和された後も赤い鳥の復刻盤が発売されていない。(と思う)
多くの歌手がカバー曲として歌ったりCDをだしているのに。
************<子守唄と守り子唄>Wikipediaより**************
日本の民謡や童歌などで、「子守唄」とされる歌には、本来の子守唄(子供を寝かしつけるための歌」と、守り子唄(もりこうた)と呼ばれる唄とがあるといわれており、五木の子守唄は、守り子唄のひとつである。
守り子唄とは、子守をする少女が、自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで子供に唄って聴かせ、自らを慰めるために歌った歌である。
かつて子守の少女たちは、家が貧しいために、「口減らし」のために、預けられることが多く、境遇は下女や奴隷とほとんど代わらなかったという。
************************************************************
「竹田の子守唄」は、<守り子唄>に相当する。
そして「放送禁止唄」
米国では放送禁止用語がたった五つしかないという。
日本にはおそらく数え切れないほどあると聞く。
日本の放送メディアにはまた多くの自主規制項目が存在すると言われる。
実は「放送禁止唄」というものはなく、ただ民放連が1959年に「要注意歌謡曲指定制度」というものを決め、これに各局が従っているだけのこと、べつに法律でもなんでもない。
公序良俗のためという名のガイドラインなのだそうである。
現実には次から次へと放送禁止や放送自粛規制枠を広げてきた。
いったんそうなると、二度とその歌は禁断のレッテルが貼られメディアのどこにもにあらわれなくなる。
そのレッテルは実はメディアの共同幻想に過ぎないのでは。
不適切なのは、唄に差別的表現が含まれていることではなく、差別があることを隠そうとすることなのではないか。
放送規制することで差別を受けている人たちの存在を隠すことが必ずしもその人たちを守ることにはならないかも分からないのに。
古くは「ヨイトマケの唄」や、私が過ごした青春時代の頃のフォークソングには禁断の唄がいっぱいあります。
本当に不適切な唄はあるのかも知れませんが、毒にも薬にもならない唄だけが氾濫する世の中が本当に健全と言えるのでしょうか。
これは唄だけではありません。
日本は本当に表現の自由、報道の自由、言論の自由が守られている国と言えるのでしょうか。
と、「竹田の・・・」を聞いて、こんなことを思ってしまいました。
そしてもう一度、米国には放送禁止用語がたった五つしかない...。
B面は「翼をください」
CD屋さんに行っても、レンタルCD屋さんにも無く、この唄が差別絡みの唄ということで1990年ころまでいわゆる「放送禁止(自粛?)唄」であったことを知ったのはつい数年前のこと。
自粛が緩和された後も赤い鳥の復刻盤が発売されていない。(と思う)
多くの歌手がカバー曲として歌ったりCDをだしているのに。
************<子守唄と守り子唄>Wikipediaより**************
日本の民謡や童歌などで、「子守唄」とされる歌には、本来の子守唄(子供を寝かしつけるための歌」と、守り子唄(もりこうた)と呼ばれる唄とがあるといわれており、五木の子守唄は、守り子唄のひとつである。
守り子唄とは、子守をする少女が、自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで子供に唄って聴かせ、自らを慰めるために歌った歌である。
かつて子守の少女たちは、家が貧しいために、「口減らし」のために、預けられることが多く、境遇は下女や奴隷とほとんど代わらなかったという。
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「竹田の子守唄」は、<守り子唄>に相当する。
そして「放送禁止唄」
米国では放送禁止用語がたった五つしかないという。
日本にはおそらく数え切れないほどあると聞く。
日本の放送メディアにはまた多くの自主規制項目が存在すると言われる。
実は「放送禁止唄」というものはなく、ただ民放連が1959年に「要注意歌謡曲指定制度」というものを決め、これに各局が従っているだけのこと、べつに法律でもなんでもない。
公序良俗のためという名のガイドラインなのだそうである。
現実には次から次へと放送禁止や放送自粛規制枠を広げてきた。
いったんそうなると、二度とその歌は禁断のレッテルが貼られメディアのどこにもにあらわれなくなる。
そのレッテルは実はメディアの共同幻想に過ぎないのでは。
不適切なのは、唄に差別的表現が含まれていることではなく、差別があることを隠そうとすることなのではないか。
放送規制することで差別を受けている人たちの存在を隠すことが必ずしもその人たちを守ることにはならないかも分からないのに。
古くは「ヨイトマケの唄」や、私が過ごした青春時代の頃のフォークソングには禁断の唄がいっぱいあります。
本当に不適切な唄はあるのかも知れませんが、毒にも薬にもならない唄だけが氾濫する世の中が本当に健全と言えるのでしょうか。
これは唄だけではありません。
日本は本当に表現の自由、報道の自由、言論の自由が守られている国と言えるのでしょうか。
と、「竹田の・・・」を聞いて、こんなことを思ってしまいました。
そしてもう一度、米国には放送禁止用語がたった五つしかない...。
差別用語も本当に変ですね。
昔日本語を留学生に教えていたころ、差別用語について話しました。
○○○はだめよ、「足の悪い人」と言って・・・と言いますと、
留学生曰く:それは心でそう思っているからでしょう?
言葉の問題ではない!と反撃されました。
青春の歌をありがとう
S&Gの唄はどれも音楽的にすぐれたものばかりと思いますねえ。
彼らのCDは殆ど持っています。
赤い鳥の「竹田の子守唄」は、詩もメロディもハーモニーも皆の愛唱歌としていつまでも歌い継がれて行くべき一品と思います。
ところで、日本の「差別用語」に対する基本的な考え方とは...。
差別をなくそうというよりも、それらに触れないでおきましょう、そしてそれは無かったことにしてしまいましょう、という発想から来ているものだと思います。
しかしだからと言って、いい唄を葬ってしまって良い訳はありませんね。