(http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/64502648.html からの続き)
稲本はここで、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題を、
「人格」 「メンタリティ」 「心の障害」 「自我」 といった 個人の問題に
還元させてしまい、 「適切な愛情」 の問題へと 帰着してしまっている。
また、 「伝統的な価値観」 が、 「伝統的」 であるだけで 正しいとは限らない。
むしろ伝統的価値観に基づいた 「父親や母親の役割」 は、
社会において 女性を不当に抑圧してきたことは、
フェミニズムが指摘してきたとおりである。
BPD患者は、 そのような世の中の不正には 敏感なのである。
しかし、 世の中の不正など 一朝一夕で正されるものではない。
そのあいだで、 BPD患者は何とか生きているのである。
そうした意味において、 個人の問題に焦点を当てることは、
社会的不正義の問題を 霧消させてしまうのだ。
また、 言動の否定と生存の否定とを 結びつけてしまうのは、
BPD患者の責任でもなんでもない。
私たちの社会が、 正しいやり方で議論をし、
何ごとかを決定する段をふまえないからこそ、
こうしたことが BPD患者の 〈生きづらさ〉 となって 現れてしまうのではないか。
つまり、 「主張の否定が人格の否定ではない」 ということを、
社会に根づかせる必要があるということである。
そしてそれは、 教育において教えられるべきことの ひとつになるであろう。
《心子はロマンチストで モラルを尊ぶ反面、
世間は薄汚く、 きれいごとが通るわけではないと 見限っていたりした。
そしてペシミスティックなことを言っては 僕を困らせた。
でも 純潔なゆえに追求するものが高く、 そして打ち破られ、
失意が高じて 何もかも捨ててしまいたい心理になるのは、 僕にはうなずけた。》
[24]
[24]稲本[2009:113] 。
このように考えたとき、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題の根底には、
自分と社会とが 折り合いがつけられないときどうするか、
という問いが横たわる[25]。
言い換えれば、 私はBPD患者の不安の根源には、
「答えのない問いを生きざるを得ない」 ということがあると 主張したいのである。
こうしたことを、 次章において より説得的に示していきたい。
[25]もちろん、 社会もBPD患者の主張も 間違っている、 ということがありうる。
しかし、 二者択一で考える思考パターンを 身につけているBPD患者にとって、
そのこともまた 理解することが困難なように思われる。】
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
(次の記事に続く)