玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

C・B・ブラウン『ウィーランド』(1)

2015年06月10日 | ゴシック論
 アメリカが本国イギリスのゴシック小説の伝統を、さまざまな形で継承した国であり、ヘンリー・ジェイムズもそのような作家の一人だということを前項に書いた。確かにポオはもちろんのこと、ホーソーンやメルヴィルなどの作品もゴシック的と言うしかないものであり、もしピンチョンにまでその系譜を延伸するならば、アメリカにおけるゴシックの伝統は本国イギリスのそれを、少なくともその長さにおいて遙かに凌駕しているということになるだろう。
 アメリカで最初にゴシック小説を書いた作家が、チャールズ・ブロックデン・ブラウン(1771-1810)という人で、この人こそが「アメリカ小説の父」と呼ばれている作家であることを最近知った。
 国書刊行会の「世界幻想文学大系」に、ブラウンの『ウィーランド』という代表作が収載されていて、その箱カバーのコピーに次のように書かれている。
「古城から月の荒野へ!
新大陸に渡ったゴシック・ロマンスの
変貌と進化の最初の記念碑的作品!
アメリカ文学のゴシック性を決定した
ブラウン最高傑作の本邦初登場!」
 このコピーにはかなり重要なことが書かれている。「古城から月の荒野へ!」という部分は、イギリスにおけるゴシック小説が古城や古い屋敷、地下牢や修道院を舞台にしたのに対して、アメリカにはそんなものはありはしないから、ブラウンは“月の荒野”を舞台にしたというのである。
 インディアンの跳梁する“月の荒野”を舞台にした作品はブラウンの『エドガー・ハントリー』という小説の方らしいが、『ウィーランド』でブラウンは、フィラデルフィアの農場をその舞台としている。アメリカにおけるゴシックは、舞台設定からしてイギリスとは違うものであらざるを得なかったし、歴史というものを持たないアメリカにあってはゴシックの時制もまた、過去ではなく現在に設定せざるを得なかったというわけだ。
 また「アメリカ文学のゴシック性を決定した」という部分は、C・B・ブラウンの作品がナサニエル・ホーソーンやエドガー・アラン・ポオ、さらにはウィリアム・フォークナーにまで影響を与えたと言われていることを意味している。
しかし『ウィーランド』を読んでみると、まずこの作品が構成上の緻密さに欠けていることが見えてくる。ストーリーはそれなりに面白いのだが、後半の謎解きの部分が結構穴だらけで説得力はないし、ご都合主義もはなはだしい。
 またこの小説で重要な役割を演ずるカーウィンの人物像が不明瞭で、この人物の不可解な行動が本当に意図したところがよく分からない。あるいは、腹話術という特殊技能を持ったこの人物を登場させ、推理小説的な謎解き小説に仕立てることが本当に必要だったのか疑問に思う。
 だからこの作家が後の偉大な作家達に影響を与え、彼が「アメリカ文学のゴシック性を決定した」ということがほとんど信じられないのである。 


ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(6)

2015年06月09日 | ゴシック論
『聖なる泉』で最も特徴的なことは、「私」の論理が妄想かどうかということにあるのではない。それは小説の語り手である「私」と小説の作者であるヘンリー・ジェイムズ自身との関係性にある。
『ねじの回転』での語り手は、ジェイムズ自身とは離れた位置にいるが、『聖なる泉』ではそうではない。「私」の観察、推論、分析そのものがこの小説のほとんどすべての構成要素なのであり、それを作り出しているのはヘンリー・ジェイムズその人である。
「私」はヘンリー・ジェイムズその人の観察、推論、分析によってそうするのであり、「私」と作者自身は不即不離の関係を保っていなければならない。なぜなら、「私」はジェイムズの心理主義的方法それ自体を実行しているのだから。「私」はこの小説の方法自体に言及するのであり、作者もそのことによって小説が成り立っているのだということを自覚している。
 だから、「私」が「私」の理論を妄想だといって投げ出してしまえば、小説はそれ以上先に進めなくなる。小説中「私」は何度も自らの理論が妄想ではないかと疑うが、そのたびに「私」は疑いを克服して再起を果たしていく。そうしなければ『聖なる泉』という小説自体が成立しないのである。
 もし「私」が自身が妄想に取りつかれているのだと主張し始めたら、ヘンリー・ジェイムズがある意味自信をもって使用している心理小説の方法が、すべて破綻してしまう。そういう意味で『聖なる泉』は綱渡り的な小説なのである。あるいは作者と語り手との危うい均衡の上に成り立っている、危険極まりない小説だと言うこともできるだろう。
 だから、最後のブリセンデン夫人との対決の場面でも、「私」は素直に敗北を認めることができない。最後に再び自信を取り戻して、読者を煙に巻くしかこの小説は終わりようがない。もし「私」が敗北を認めてしまったら、『聖なる泉』の小説としての価値が失われてしまうからである。
 ヘンリー・ジェイムズにしても、そんな危うい道をいつまでも進み続けることはできなかった。ジェイムズもまた「私」のように、心理主義的な方法を決して捨てることはないが、それ自体を小説のテーマにするというような危険なことは二度とやらない。
結局、『聖なる泉』で極端にまで駆使した心理主義的方法は、後期の『鳩の翼』のような傑作にも活かされているわけであり、『聖なる泉』はヘンリー・ジェイムズ後期の傑作群を生むための、実験的な試みであったと言うことができるだろう。
(この項おわり)

ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(5)

2015年06月07日 | ゴシック論
 さて、私は『聖なる泉』の心理小説としての極端な性格ということを言ったが、それは「私」が謎の探求の主体として設定されていることに起因している。この小説が『鳩の翼』のように三人称で書かれていたならば、このような行き過ぎは避けられただろう。しかし、『聖なる泉』は三人称で書かれることなどできなかった。「私」はヘンリー・ジェイムズ自身の方法をこそ実践しているのだからである(次回にこのことに触れる)。
「私」の探求は徹底的で、有無を言わせぬものがある。会話は『鳩の翼』より更に少なくて、分析的記述が小説全体のほとんどを占めている。「私」と他の登場人物との間の“腹のさぐり合い”もしつこいほどに描かれていく。「私」の基本的なルールは次のようなものである。
「ゲームの公正なルールに従って考慮に入れることを許される種類の徴候に基づいてこそ――心理的徴候だけに基づいてこそ――この種の詮索は高度の知的活動と言えるのです。卑しむべきは探偵と鍵穴です」
 これが「私」が自分自身に課しているゲームのルールである。物的証拠など必要ではない。だから探偵は卑しむべきものとされる。“鍵穴”とは覗き見の手段であるが、この覗き見や立ち聞きといったことが、どれほど多くのゴシック小説に、ストーリーを円滑に進めるための手段として活用されてきたことだろう。
「私」はそれをも否定する。つまりはヘンリー・ジェイムズ自身がゴシック小説における覗き見や立ち聞きといった姑息な(小説の展開にとって姑息な)手段を否定しているのである。
 心理の至上権を打ち立てているのは「私」ではなく、本来的にはヘンリー・ジェイムズ自身である。心理的徴候によってすべては解明されると「私」が考えているということは、ジェイムズ自身が心理的徴候を的確に描いていけば、小説は成立すると考えていたことと同じことでなければならない。
 そうでなければ『聖なる泉』のような小説は書かれ得ないし、後期の心理小説三部作と言われる『使者たち』『鳩の翼』『黄金の盃』という傑作群もまた書かれ得なかったであろう。
「私」の探求にはほとんど会話さえ必要ではない。その人物がそこにいるだけで、そこに表情を示す顔や眼があるだけで、「私」はすべてを読み取ることができる。まるでテレパシーのようだが、実際にそのようにして「私」は“すべてを知る”ことができる、というか“すべてを知った”と思い込むことができる。
 最後の第13章と14章は「私」とブリセンデン夫人との対決の場面に充てられていて圧巻である。二人の腹のさぐり合いから、ブリセンデン夫人の攻勢へと進み、事実を突きつけ「私」の理論を否定し、「あなたは本当に気違いだわ」と夫人に言わせる場面はスリルに満ちている。しかしそれでも、「私」は敗北を認めず、最後にこう言って真実を謎の中に放置する。
「ただし、実を言えば私が彼女の三倍も理路整然としていなかったというわけではない。じつに致命的に私に欠けていたのは、彼女のあの確信に満ちた口調であった」
ヘンリー・ジェイムズは、“小説に真実などというものは必要ではない”とさえ言っているかのようだ。


ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(4)

2015年06月07日 | ゴシック論
『聖なる泉』は同じ頃に書かれただけあって、『ねじの回転』との共通性を多分にもっている。『ねじの回転』の舞台は古めかしいブライのお屋敷であり、『聖なる泉』の方はニューマーチ邸。どちらも閉鎖的な空間であって、登場人物も限定されている。そこには共通して外部というものがない。
『聖なる泉』は一人称で書かれていて、「私」という語り手に名前は与えられていない。『ねじの回転』も、導入部があって手記の存在が紹介されるという、よりゴシック的な構成になってはいるが、やはり一人称で書かれていて、主人公である女家庭教師に名前は与えられていない。ヘンリー・ジェイムズのいわゆる「視点」ということが関係してくるのだが、今はそのことに触れている余裕はない。
『ねじの回転』は実際に幽霊が顕れたのか、あるいはすべては女家庭教師の妄想に過ぎないのか判然としないというか、どちらともとれる書き方がされている。『聖なる泉』でも同様に、「私」の理論が正しくて吸血鬼現象が起きているのか、あるいはすべては「私」の妄想に過ぎないのか判然としないように書かれている。
『聖なる泉』では『ねじの回転』におけるよりも、ゴシック的なシチュエーションは弱い。ニューマーチ邸はブライの屋敷のように中世風のお屋敷ではないようだし、そもそも邸の描写などほとんどなされていない。
 ヘンリー・ジェイムズは『ねじの回転』の場合のように、ゴシック的空間と言うことにほとんど注意をはらっていない。『聖なる泉』でゴシック的なのは、空間よりも人間と人間との関係のあり方、あるいは実際の関係ではなく「私」が妄想によってそうだと思い込んでいる人間と人間との関係の方である。
 閉鎖的な空間にあって、複雑な迷路のように入り組んだ男女関係をはじめとする人間関係、あるいはやはり実際の関係ではなく、「私」が妄想によってそのように思い込んでいる複雑な人間関係。ニューマーチ邸に滞在する限り、その息苦しさから逃れることはできない。だからこそ、たった一日半の滞在に過ぎないのに、「私」はそこから逃げだそうとする。小説半ばで「私」は次のように語る。
「妄想が私に取りついたのは私がこの邸を訪れる途中の出来事だったのだから、もと来た道を引き返せばその妄想を振り払うことができるだろう。ただそのためには、きれいさっぱりと別れを告げなければならない。断乎帰りこぬことを誓って全ての思い出の種となるものから逃げ去らなければならない」
 真にゴシック的なのはつまり妄想の迷路なのであって、他のものではない。自らの妄想に気づいているだけに「私」は『ねじの回転』の女主人公よりも意識的であり、その意味で成長を遂げているとも言える。
 ともかく、ヘンリー・ジェイムズほどにゴシック小説に対して意識的に、つまりは韜晦的に書いた作家はそれまで他にはいない。ジェイムズが幽霊や吸血鬼を信じていたとも思えない(兄のウィリアム・ジェイムズは心霊現象に大きな興味をもっていたようだが)。
『ねじの回転』が幽霊なき時代のゴシック小説であるとすれば、『聖なる泉』は吸血鬼なき時代のゴシック小説なのである。


ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(3)

2015年06月06日 | ゴシック論
 ニューマーチ邸で「私」は異常なほどの知性の“冴え”をもって、様々な人物を観察し、推論し、分析し、謎を追究していく。
 この異常に冴えわたる知性というものを私は共有することができる。私もまたそのような知性の異常な昂進に捕らわれたことがあるからである。人が狂気に陥る一歩手前にある時、そうしたことが時に起こることがある。
 私の周りにいる人間達の言動の意味するところが、異常に鮮明に理解されてくるという錯覚、あるいは私の周りの人間同士の関係のあり方が、数学の方程式を解く時のような悦びとともに、突然異常にクリアなものとして意識されてくるという錯覚の体験がそれである。
 多分そのような体験を持たない人には、ヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』はほとんど理解不能であるに違いない。そして、そのような体験の中で私は何の根拠もない“尊大さ”に捕らわれていったように思う。
 しかし、その“尊大さ”は狂気と紙一重のところにあるものであって、真実のものではない。結局は度を超した知性の冴えということそれ自体が妄想であって、狂気の産物でしかない。
『聖なる泉』の「私」もまた異常に昂進した知性を自ら誇示することで尊大さを発揮してみせるが、それが妄想であるかも知れないということは、「私」自身によって絶えず意識されている。「私」は自らの“知的活動”を無謬なものだと自認するばかりでなく、他者に向かってそれを公言さえするのだが、一方でそれが壮大な妄想に過ぎないのではないかという不安に捕らわれて愕然とすることもあるのである。
 小説の最後に「私」の理論は、ブリス夫人の突きつける“事実”によって否定されてしまうのだが、その“事実”でさえ小説内の事実であって、証拠を持たない。だから『聖なる泉』は永遠の謎の中に放置されたまま終結するだろう。『ねじの回転』がそうであるように。
 ところで「私」の理論は、様々な人物の観察と分析に基づいていて、精緻を極めているというように小説内では設定されている。まるでよくできたゲームのように。
 だから『聖なる泉』は図式的でゲーム的な作品であり、そうした意味で実験的、挑戦的あるいは挑発的な作品でもある。この作品を読んで、我々は『ねじの回転』のような完璧と言ってもよい完成度を感じることはとてもできない。

 

ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(2)

2015年06月05日 | ゴシック論
 とにかく途方もない小説である。『ねじの回転』も途方もない小説であるが、『聖なる泉』はそれ以上に途方もない小説である。なにせこの小説にあって作者は、ひたすら語り手の「私」が見た人間関係に関わる理論と、それについての議論に終始させているからである。
 発端はロンドンのパディントン駅。週末にニューマーチ邸に招かれた「私」は駅で、ギルバート・ロングとグレイス・ブリセンデン夫人と出会う。「私」は最初、彼らが彼らであると認識することができない。二人とも大きな変貌をとげていたからである。
 かつて愚鈍だったロングはいつの間にか聡明な紳士に変わっているし、さほど美しくもなかったブリセンデン夫人は、いつの間にか美しく魅力的になり、40歳以上なのに25歳くらいにしか見えないほど若々しい女性に姿を変えている。「私」は言う。
「私の道連れのそれぞれに、何か前例のないことが起きたのだ――その事実は二人に歴然と顕われていた」
 こうして最初に謎が仕掛けられるのは、ゴシック小説の常套的な手法であるが、その謎が小説の進行とともに解かれていくというのでもない。すべては「私」の解釈の中で進行し、その解釈が他の登場人物によって相対化され、覆されそうになりながらも、徐々に「私」の中に理論が構築されていく。そのことだけがこの小説の中で起きるすべてである。
“聖なる泉”とは何か? 「私」はブリセンデン夫人の変貌ぶりについて、ロングにこう話す。
「ブリス夫人が新鮮な血液なり時間と青春の特別増配なりをどこかで手に入れなければならなかったとすれば、一番便利なのは他ならぬブリスその人から手に入れることでしょう。(中略)彼の方では、それらを彼女に供給するために、聖なる泉の蛇口を開かなければならなかったのです」
 つまり、ブリス夫人は夫のブリセンデンの“聖なる泉”の蛇口から、新鮮な血液なり時間と青春の増配なりを受け取ったというのである。まるで吸血鬼のテーマである。明らかにヘンリー・ジェイムズは、『ねじの回転』で幽霊の存在をほのめかしているように、ここでブリス夫人の中に吸血鬼の存在をほのめかしているのである。
 ではロングの場合はどうか? 「私」によればロングが知性を手に入れたとすれば、彼の恋人からであり、その結果その恋人は知性を失って痴呆化しているはずだというのが「私」の理論となる。問題はそれが誰かということになるが、ニューマーチ邸で我々はその“誰か”に出会うことになるだろう。
 そしてここにも吸血鬼のテーマが姿を見せている。“聖なる泉”から汲み取るものが“若さと時間”であるか、それとも“知性”であるかの違いがあるだけに過ぎない。ロングは彼の恋人から知性を吸い取って変貌した吸血鬼に違いないのである。


ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(1)

2015年06月04日 | ゴシック論
 チリの作家ホセ・ドノソがこよなく愛したヘンリー・ジェイムズのことがずっと気になっていて、この「書斎」でもこれまで『鳩の翼』と『ねじの回転』の2作を取り上げてきた。次は3作目となる『聖なる泉』である。
『聖なる泉』は1901年に書かれた小説で、『ねじの回転』(1898)の3年後の作品ということになる。『ねじの回転』と同様『聖なる泉』もヘンリー・ジェイムズの書いた“ゴシック小説”の一つとされているので、どうしても読まなければならない。
 国書刊行会が出した「ゴシック叢書」にこの作品は含まれているのだが、「ゴシック叢書」はアメリカの作家の作品を多く収載している。C・B・ブラウンの『エドガー・ハントリー』、ハーマン・メルヴィルの『乙女たちの地獄』、ナサニエル・ホーソーンの『大理石の牧神』、ジョン・バースの『山羊少年ジャイルズ』、トマス・ピンチョンの『V.』などである。
 ポオに言及するまでもなく、アメリカこそ本国イギリスのゴシック小説の伝統を、さまざまな形で継承した国であって、ヘンリー・ジェイムズもそうしたアメリカの作家の一人なのである。
「ゴシック叢書」にたとえば現代作家のトマス・ピンチョンの『V.』を入れたのは、かなり大胆な選択であったかも知れないが、『V.』だってゴシック小説の要件を充分に備えた作品である。『V.』はその舞台を地下下水道の迷路に展開させていて、そこは現代における地下埋葬所であり、地下牢に他ならないのであるから。
 しかし、それに比べてもヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』はゴシック小説の条件をまったく満たしていないかのように見える。舞台となるのはロンドンから汽車で一時間のところにあるニューマーチ邸、そこに数人の客が呼び寄せられて、何かが始まる。閉鎖的な空間で何が起こるのだろうか。
 ところが、超自然現象が起きるわけでもなければ、ドラマティックな事件が起きるわけでもない。正しく言えばそこでは“何も起こらない”。何も起こらないゴシック小説などというものがあり得るのだろうか。
 事件など何も起こらないのだが、ただ本編の語り手である「私」がニューマーチ邸に集まってくる人間達の関係性について、ある理論を打ち立てていくという経緯だけが語られる。
「私」は理詰めの推理と分析力を持って他の登場人物達と“対決”しながら――それは『鳩の翼』や『ねじの回転』ですでに見てきたような心理的対決――によって、理論を打ち立てていく。その心理的対決の場面がほとんど会話さえ欠いた分析のみで出来上がっているのは『鳩の翼』と同様だが、それがあまりにも極端に過ぎることが指摘されるだろう。
 私は『聖なる泉』を3日で読んだが、このような心理小説に馴れていない人には、全く退屈で読み通すことはできないだろうと思う。私は『ねじの回転』は多くの人に読むことを勧めるが、『聖なる泉』に関しては読むことを勧めない。
 初めてヘンリー・ジェイムズを読む人がこの作品を読んだとしたら、そのあまりの退屈さに辟易して、二度とジェイムズの作品に接することはなくなるだろうからである。
ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(1984、国書刊行会「ゴシック叢書」第9巻)青木次生訳

 

谷川渥監修『廃墟大全』(5)

2015年06月03日 | ゴシック論
 ピラネージに深入りしすぎて『廃墟大全』から離れてしまったが、「牢獄」シリーズを含めて、やはり廃墟といえばピラネージというイメージは圧倒的に強い。
『廃墟大全』では、中国文学者の中野美代子が「ピラネージなき中国」という文章を書いていて、中国(日本も含めた東アジア圏)とヨーロッパにおける廃墟の文化史的な違いについて分析している。簡単に言えば木造文化と石造文化の違いである。
 中野は「中国には表象としての廃墟はない」と書く。中国にも日干し煉瓦で造られた建築物などの廃墟はあるが、それらは砂漠地帯の奥深くにあって人の目に付かないか、あるいは砂漠の厳しい環境のために、すでに廃墟としての面影すら止めていない。
 中野はまた「崩落ないし崩壊の悲劇にいろどられた廃墟美は、あきらかに石の建造物の特権なのである」とも書いている。中国では主要な都市は常に戦火にさらされ、宮殿は廃墟と化すが、木造であるが故にすぐにまた新たに建造される。木造文化は一時的に廃屋は残しても、廃墟は残さないのである。ピラネージについて中野は次のように言っている。
「二千年もの間見られつづけたからこそ、フォロ・ロマーノ(古代ローマ遺跡)はピラネージを生んだ。記憶をゆりうごかすものがなければ、廃墟は存在しない」
 つまり、中国にはピラネージは生まれ得ない。そして日本にあってもピラネージと廃墟の美学は存在し得ない。日本の幽霊譚に登場するのはせいぜいが廃屋(上田秋成の「浅茅が宿」をみよ)に過ぎないのである。
 最後に中野は「宮殿楼閣ばかりではない、破屋にも、その上を通りすぎる時間は、崩壊というカタストロフィをもたらさない。ピラネージのみならず、モンス・デジデリオも、アジアには生まれなかったのである。それだけ、アジアの時間は、終末を信じていないのであろう」と書く。
 しかし今日の日本では『廃墟大全』のような本も出版されているし、ピラネージやデジデリオの画集さえ出版されている。それが山尾悠子のような作家に大きな影響を与えていることを思うと、何かが変わりつつあるのだと思わざるを得ない。
 それは当然のように、近代日本が疑似石造建築としてのコンクリート建築を量産し、さらにはそれらがいくつかの都市において、まさに終末論的な破壊を被ったという歴史的事実と無縁ではあるまい。
 東日本大震災とそれによる福島原発事故は、美とは縁もゆかりもない醜怪な廃墟を生み出し、それは今も現存しているが、それはカタストロフィをもたらさなかったかも知れないかわりに、終末への確信だけは決定的に我々に与えたことは確実である。
(この項おわり) 

谷川渥監修『廃墟大全』(4)

2015年06月02日 | ゴシック論
 それどころか『ローマの古代遺跡』には、コンスタンティヌス帝皇女廟の側面図と断面図なども描かれていて、これらは完全に建築家の仕事である(『空想の建築~ピラネージから野又穣へ展』参照)。
 ピラネージがローマの遺跡を描いた作品は、だから建築家としての職業意識に貫かれていたのであり、その技量たるや他の版画家の追随を許さない。どのような細部をも見逃さずに再現しようとする強い意志は考古学者としての姿勢をも感じさせる。
 だから、ピラネージの描く建築物は狂気になど冒されてはいない。そこがモンス・デジデリオの描く建築物との大きな違いなのである。谷川渥はデジデリオの描く建築物が「発狂している」と書いているが、確かにデジデリオの世界は建築物が崩壊しながら“発狂する”、あるいは狂気にとらわれた建築物が自らの崩壊を待ち望んでいる世界であると言える。
 それに対してピラネージの建築物は決して発狂などしていないし、自ら崩壊を待ち望んでもいない。ピラネージによるローマの遺跡は2000年近くにわたる自然の浸食、あるいは人間による破壊に耐えてきた悠久の歴史を自ら誇示しているのに他ならない。
 なぜピラネージが“狂人”と言われたのか。それはひとえに「牢獄」シリーズによっているのに違いない。あれほど端正で厳密なローマの遺跡を描いたピラネージが、なぜ「牢獄」シリーズのような想像力に完全に依拠した、ロマンティックな作品を描いたのか私には分からない。
 しかし、ゴシック小説の作者たちがピラネージのローマ遺跡の作品よりも、「牢獄」シリーズにインスピレーションを受け、それを模倣したのは明らかである。ホレース・ウォルポールは『オトラント城奇譚』のインスピレーションを「種々の作品」に属する「オペレ・ヴァリエ」に得たと言われている。
 この作品には人間の身長の10倍はあろうかという巨大な甲冑に身を固めた騎士の像が建築物の一部として描かれている。ウォルポールはこの像に着想を得て、作中で重要な位置を占める巨大な甲冑の幽霊を創造したのだろう。
 しかし、自余は「牢獄」シリーズである。ピラネージの「牢獄」シリーズの反響を、我々はルイスの『マンク』にも、マチューリンの『放浪者メルモス』にも、あるいはブルワー・リットンの『ザノーニ』にも聞くことができる。
 ピラネージが生涯をかけたローマの遺跡を描いた作品には、ゴシック小説に反響するなにものをも聞き得ない。ピラネージの偉大は「牢獄」シリーズよりも、ローマの遺跡を描いた多くの作品にこそあると私は思う。
『空想の建築~ピラネージから野又穣へ展』図録(2013,町田市立国際版画美術館)


〈種々の作品〉より〈オペレ・ヴァリエ〉部分


谷川渥監修『廃墟大全』(3)

2015年06月02日 | ゴシック論


 私がピラネージの作品に接したのはかなり早く、1979年に筑摩書房から『世界版画~パリ国立図書館版』が刊行された時に遡る。その第9巻が『ピラネージと新古典主義』であり、この巻の半ばはピラネージの作品紹介に充てられている。
『ピラネージと新古典主義』の箱には「牢獄」シリーズの「巨大なアーケードの穹隅にもうけられた四つの監視塔」の部分が印刷されていて、当時まだ20代だった私はゴシックで、ロマンティックなこの絵にいかれて買い求めたのだったと記憶している。
 編集者のジャン・アデマールがちょっと信じられないことを書いているので、長くなるが紹介したい。「ピラネージと『気まぐれ』の時代」と題した解説の冒頭である。
「20年前ならば、これほどまでにピラネージを重用する者はいなかっただろう。当時彼は、ドーミエと同じく、一般には知られていなかったのである。彼は100年以上もの間無視され続けていた。(中略)現在、それも僅か1955年以降のことであるが、ピラネージは最も偉大な版画家として再認識されている。ものを見る視点も変わり、彼は、ほとんど狂人とまでいわれた芸術家から考古学者へと変身したのである」(雪山行二訳)
 今日の我々からすれば、ピラネージが100年もの間忘れられていたということが信じられない。アデマールがこの文章を書いたのは1975年くらいと思われるが(『世界版画』には原著の発行年が記載されていないので、はっきりとは分からない)、彼の言葉から判断するに、少なくともフランスにおいては19世紀半ばから20世紀半ばにかけて忘れられた版画家だったということになる。
 ピラネージは18世紀半ばに始まる廃墟趣味を先導したが、廃墟趣味の終焉とともに忘れ去られていったということなのだろうか。そしてピラネージの作品は、ロマンティックな狂気に冒された作品に過ぎないとみなされたということなのだろうか。
「牢獄」シリーズだけを見るならばそのようなことはあり得たかも知れない。「牢獄」シリーズは奔放な想像力なしには描き得なかった作品だし、建築物にとって必要な構造的な厳密さも合理性も欠いているように見えるからである。
 しかし、ピラネージはもともと建築家であったのであり、ローマの廃墟に接して考古学者を目指した人でもあった。ローマの廃墟を描いた作品もまた想像力によって補填されている部分はあったとしても、建築家としての理性が失われることは決してない。
『世界版画~パリ国立図書館版』(1979、筑摩書房)編集解説 ジャン・アデマール/坂本満