■2月中旬。ここは伊豆諸島の最南端の島、青ヶ島。
世界でも珍しい二重カルデラ地形の島です。
島の唯一の空路でもある、ヘリポートの上で愛らんどシャトルというヘリコプターに乗っています。
離陸しました。
さっきまで確実に地球の重力にいたことを体感できる浮遊感。
僕の隣には溢れる涙を堪えきれずに大泣きしている次女がいます。
その窓の向こうにはお世話になった青ヶ島のすべての子供たち。
暖かい笑顔で手を振る青ヶ島の人達が見えます。
さっきまでのお別れ会ではさっぱりとしていて、
涙一つ見せなかった小学4年生の次女。
親からみて、意外とドライなんだなぁ、
まあそれが次女らしいかと思っていたのが嘘のように、
ヘリのプロペラの轟音にかき消されながら八丈島に渡る約20分間、
彼女はずっと泣き続けていました。
八丈空港に降り立って、
「青ヶ島に帰りたい…」
そう言ってまた大泣きする次女を見て、僕も目頭が熱くなります。
人生において、出逢いというかけがえのない宝物を頂けたんだなと思いました。
心から青ヶ島の皆さんに感謝します。
■小学4年生の次女は1月中旬から2月中旬にかけて、
伊豆諸島の青ヶ島にお邪魔させてもらいました。
人口450人の母島から、人口170人の青ヶ島へ。
10歳で親元を離れて、1ヶ月間違う土地で生活し、学校に通う。
彼女がそれにチャレンジすることを決めて、早急に準備を進めました。
人見知り、場所見知りをする次女にとって、もの凄い挑戦だと思います。
そして青ヶ島にとって他の島の子どもが1か月滞在し、
学校に通うということは前代未聞のことだったようで、
本当に多くの方々に事前の調整をお願いすることになりました。
慣れない手続きで本当に大変だったと思います。
快く対応してくれて、本当に有難かったです。
そして、10歳の子どもを1か月間もホームステイを受け入れてくれるファミリーがあって、
受け入れてくれる青ヶ島の学校、地域、役場の皆さんの協力があって初めて実現したものでした。
事前に下見というか、2年前に妻が1週間お邪魔し、
青ヶ島を知り、とても気に入ったのも、
このチャレンジを実現するのに大きな意味をもたらしました。
青ヶ島の小学校の最後の授業、お別れ会で、
ヘリポートでみんなが歌ってくれた青ヶ島の見送りの歌「旅ゆく君へ」。
その傍らで僕は聞いていると、みんなが本当に大事に次女に接してくれていて、
本当に愛されていたのだなぁとひしひしと伝わってきました。
それが本当に有り難くて、僕自身も涙を堪えることはできませんでした。
母島に帰ってきた今も、この曲を聴くと、涙が溢れてきます。
あの時の情景が浮かんできてしまいます。
本当にありがとうございます♪
■遡る事、今から1ヶ月前、
1月中旬のおがさわら丸が3週間のドック入りするタイミングで妻と次女が母島を発ち、
青ヶ島に向かいました。
海が時化る冬の大海原。
おがさわら丸はなんと3時間遅れになるほどの大荒れでした。
青ヶ島に渡るには、一度八丈島に渡る必要があります。
しかし、竹芝桟橋から八丈島に向かう橘丸はなんと
2晩連続で条件付き運行(船は運航するが、港に接岸できずに折り返す可能性がある運行)でした。
簡単に渡れる空路ではなく(チケットは争奪戦ですがw)、
敢えて大海原を船で渡って青ヶ島の遠さを知って欲しいという願いから、
妻は海の道にこだわりました。
しかし、冬の海は困難を極め、2晩とも橘丸は八丈島に接岸できず、
残念ながら竹芝桟橋に戻ってしまいました。
3時間もかかったははじま丸、27時間の大揺れのおがさわら丸、2晩続けて乗り続けた橘丸。
次女と妻が乗った船旅はなんと60時間を超えるまでになってしまいました((+_+))
このまま頑張ることもできたのですが、
電話で聞こえる声からは母子共に疲労困憊は否めませんでした。
僕は母島から羽田→八丈島のフライトを勧め、
最後は空の便を使いました。
あれだけ困難を極めた八丈入りですが、
拍子抜けするほど無事にあっという間に八丈島にたどり着きました(笑)。
八丈島にたどり着いて、友人の家から送られてきた妻と次女の写真は、
とてもリラックスした顔で、心底ホッとしたのを覚えています。
■揺れることのない八丈島で1泊、骨を休め、いよいよ翌日は青ヶ島です。
八丈島→青ヶ島もできる限り船で渡りたい!
そう願う妻の想いが伝わったのか、
1週間欠航を続けていたあおがしま丸は、翌日運行する事ができました。
次女にとっての初めてのあおがしま丸は、
意外にもははじま丸と同じ顔ぶれの船員さんたちがいました(笑)。
そう、ははじま丸と同じ伊豆諸島開発(株)が運行しているのです。
船員さんたちが「クジラでも見に来たの?」と声をかけてくれたそうです。
そんな報告も、どこか僕をホッとさせてくれました。
まずは辿り着くだけでもこんなに困難を極めました。
航空路こそありませんが、
年間の就航率が90%を超える小笠原の航路に比べて、
青ヶ島のあおがしま丸の就航率は50%。
海の悪い冬だと、週に1度接岸できればいい方だそうです。
小笠原は元々週に1度のアクセスですが、台風がない限りは欠航はありません。
青ヶ島はなかなか予定通りにいかない船と、チケットが取りにくいヘリのみのアクセスの島。
その点が、大きく違う部分と思います。
そんな青ヶ島で、一体どんな新生活が待っているのか?
これから次女は生活する舞台も変わり、
青ヶ島小学校生活がスタートします。
その②へ続く→
世界でも珍しい二重カルデラ地形の島です。
島の唯一の空路でもある、ヘリポートの上で愛らんどシャトルというヘリコプターに乗っています。
離陸しました。
さっきまで確実に地球の重力にいたことを体感できる浮遊感。
僕の隣には溢れる涙を堪えきれずに大泣きしている次女がいます。
その窓の向こうにはお世話になった青ヶ島のすべての子供たち。
暖かい笑顔で手を振る青ヶ島の人達が見えます。
さっきまでのお別れ会ではさっぱりとしていて、
涙一つ見せなかった小学4年生の次女。
親からみて、意外とドライなんだなぁ、
まあそれが次女らしいかと思っていたのが嘘のように、
ヘリのプロペラの轟音にかき消されながら八丈島に渡る約20分間、
彼女はずっと泣き続けていました。
八丈空港に降り立って、
「青ヶ島に帰りたい…」
そう言ってまた大泣きする次女を見て、僕も目頭が熱くなります。
人生において、出逢いというかけがえのない宝物を頂けたんだなと思いました。
心から青ヶ島の皆さんに感謝します。
■小学4年生の次女は1月中旬から2月中旬にかけて、
伊豆諸島の青ヶ島にお邪魔させてもらいました。
人口450人の母島から、人口170人の青ヶ島へ。
10歳で親元を離れて、1ヶ月間違う土地で生活し、学校に通う。
彼女がそれにチャレンジすることを決めて、早急に準備を進めました。
人見知り、場所見知りをする次女にとって、もの凄い挑戦だと思います。
そして青ヶ島にとって他の島の子どもが1か月滞在し、
学校に通うということは前代未聞のことだったようで、
本当に多くの方々に事前の調整をお願いすることになりました。
慣れない手続きで本当に大変だったと思います。
快く対応してくれて、本当に有難かったです。
そして、10歳の子どもを1か月間もホームステイを受け入れてくれるファミリーがあって、
受け入れてくれる青ヶ島の学校、地域、役場の皆さんの協力があって初めて実現したものでした。
事前に下見というか、2年前に妻が1週間お邪魔し、
青ヶ島を知り、とても気に入ったのも、
このチャレンジを実現するのに大きな意味をもたらしました。
青ヶ島の小学校の最後の授業、お別れ会で、
ヘリポートでみんなが歌ってくれた青ヶ島の見送りの歌「旅ゆく君へ」。
その傍らで僕は聞いていると、みんなが本当に大事に次女に接してくれていて、
本当に愛されていたのだなぁとひしひしと伝わってきました。
それが本当に有り難くて、僕自身も涙を堪えることはできませんでした。
母島に帰ってきた今も、この曲を聴くと、涙が溢れてきます。
あの時の情景が浮かんできてしまいます。
本当にありがとうございます♪
■遡る事、今から1ヶ月前、
1月中旬のおがさわら丸が3週間のドック入りするタイミングで妻と次女が母島を発ち、
青ヶ島に向かいました。
海が時化る冬の大海原。
おがさわら丸はなんと3時間遅れになるほどの大荒れでした。
青ヶ島に渡るには、一度八丈島に渡る必要があります。
しかし、竹芝桟橋から八丈島に向かう橘丸はなんと
2晩連続で条件付き運行(船は運航するが、港に接岸できずに折り返す可能性がある運行)でした。
簡単に渡れる空路ではなく(チケットは争奪戦ですがw)、
敢えて大海原を船で渡って青ヶ島の遠さを知って欲しいという願いから、
妻は海の道にこだわりました。
しかし、冬の海は困難を極め、2晩とも橘丸は八丈島に接岸できず、
残念ながら竹芝桟橋に戻ってしまいました。
3時間もかかったははじま丸、27時間の大揺れのおがさわら丸、2晩続けて乗り続けた橘丸。
次女と妻が乗った船旅はなんと60時間を超えるまでになってしまいました((+_+))
このまま頑張ることもできたのですが、
電話で聞こえる声からは母子共に疲労困憊は否めませんでした。
僕は母島から羽田→八丈島のフライトを勧め、
最後は空の便を使いました。
あれだけ困難を極めた八丈入りですが、
拍子抜けするほど無事にあっという間に八丈島にたどり着きました(笑)。
八丈島にたどり着いて、友人の家から送られてきた妻と次女の写真は、
とてもリラックスした顔で、心底ホッとしたのを覚えています。
■揺れることのない八丈島で1泊、骨を休め、いよいよ翌日は青ヶ島です。
八丈島→青ヶ島もできる限り船で渡りたい!
そう願う妻の想いが伝わったのか、
1週間欠航を続けていたあおがしま丸は、翌日運行する事ができました。
次女にとっての初めてのあおがしま丸は、
意外にもははじま丸と同じ顔ぶれの船員さんたちがいました(笑)。
そう、ははじま丸と同じ伊豆諸島開発(株)が運行しているのです。
船員さんたちが「クジラでも見に来たの?」と声をかけてくれたそうです。
そんな報告も、どこか僕をホッとさせてくれました。
まずは辿り着くだけでもこんなに困難を極めました。
航空路こそありませんが、
年間の就航率が90%を超える小笠原の航路に比べて、
青ヶ島のあおがしま丸の就航率は50%。
海の悪い冬だと、週に1度接岸できればいい方だそうです。
小笠原は元々週に1度のアクセスですが、台風がない限りは欠航はありません。
青ヶ島はなかなか予定通りにいかない船と、チケットが取りにくいヘリのみのアクセスの島。
その点が、大きく違う部分と思います。
そんな青ヶ島で、一体どんな新生活が待っているのか?
これから次女は生活する舞台も変わり、
青ヶ島小学校生活がスタートします。
その②へ続く→