■2017年2月、僕は沖縄本島のやんばるにある自分のルーツを辿る旅をしました。
これは伊江島のとあるお店に飾られてあった三線です。
この三線が作られる背景について語られた印象深い記事を見たので紹介したいと思います。
僕は小笠原に来た頃によく歌っていた曲があります。
それは20代の頃。
THE BOOMのヴォーカルMIYAこと宮沢和史さんが組んだユニット、
MIYA&YAMIのシングル、「神様の宝石でできた島」です。
元々は父島のおがさわら丸出港の時に、サザンクロスVという船が見送りの時に大音量で流していた曲です。
僕が小笠原ユースホステルやアンナビーチ母島ユースホステルで働いていた頃に、
毎便出港日の前の夜の宴で歌ったものでした。
大事な人の出逢いと別れに歌て来ていて、
今でも歌詞やコードは見なくてもすべて弾ける曲の一つです。
■そんな大好きなTHE BOOMのMIYAが語る戦争と島唄と三線の記事を見つけたので紹介します。
記事の内容です。
【「沖縄」を考える】島唄、三線弾けなかった一節 宮沢和史さん
「朝日新聞デジタル」2019年9月30日05時00分
母方の祖父は硫黄島で戦死しました。
毎年8月15日が近づくと、私の母は、戦争の特集番組を流すテレビに向かって、「なんでだ」「まったくだ」とつぶやいていました。
母の怒りの矛先は敵国ではなく、どうやら「日本」。子どもながらにも、そのことが気にかかっていました。
その意味に気づいたのは20代に入ってから。
音楽への興味から通い始めた沖縄で、ひめゆり平和祈念資料館を訪れたときでした。
10代の女子学生たちが軍国教育や日本軍によって死に追い込まれていったことを知りました。
そうした死も、祖父の死も、政府と軍が選んだ誤った道の果てにあったのだと思い至りました。
何よりも、県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦という日本の歴史を、
20年以上も生きてきて知らなかったことが恥ずかしくなりました。
どうしたらいいのかと考え、僕には歌しかないと作ったのが「島唄」です。
ウージの森(サトウキビ畑)を走り回っていた幼なじみの男女が、
地下のガマで互いに殺し合ったという話も、歌詞にしました。
〈ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら〉
この一節です。レとラを使わない琉球音階をベースにした曲ですが、この歌詞の部分だけは西洋音階です。
琉球音階を使えなかった、三線(さんしん)は弾けなかったという方が正確です。
「日本」が彼や彼女を死に追いやったと知ったからです。
今は辺野古の問題をめぐって日本政府と沖縄の民意が対立していますが、
沖縄の人たちの怒りの中心にあるのは、尊厳の問題なんだと、私は感じています。
同じ目線に立って話をするという当たり前のことを本土の側はしてこなかった。
日本政府の態度やものの言い方には、尊厳に対する敬いや配慮が足りない。
僕の発言で何かが変わるとは思っていないし、こうすべきだと言うつもりもありません。
ただ、遠回りでも地味でもいいから、僕とかかわった人が沖縄について、平和について何か気づいたり、考えたりするような活動を続けたい。
その一つとして、三線のさおの材料になるリュウキュウコクタンを沖縄で育てる活動を始めています。
育つまでに100~200年くらいかかる。僕も含めて誰も生きていませんが、
育てた木で三線が作られるなら、その間は戦争が起きなかったことになります。
(聞き手・藤原慎一)
みやざわ・かずふみ 音楽家 53歳 山梨県出身。
「島唄」で知られる「THE BOOM」(解散)のボーカル。沖縄民謡の保存にも取り組む。
※写真は全て2017年の沖縄で撮影したものです。
そしてこんな裏エピソードがあったそうです。
「島唄」を発表した何年もあとに三線職人の方々と呑んでたら、
「あの歌はとっても良かった、おかげで三線もたくさんの人が弾いてくれるようになったし、俺たちも作り甲斐があるよ。
でもね、あの後から三線の棹を制作する木材、琉球黒檀が足りなくなって輸入が始まったんだよ」と。
その時には、三線職人の方も場を盛り上げるために話してくれたんだろうと思うんですが、僕的には笑えなくてね……。
三線が普及したことがいいことだけど、琉球黒檀の三線が必要な人に、届けることができないということ。
だったら植えて育てるしかないということで、色々調べてみました。
すると、黒檀という木は、三線の棹になるくらいだからとても硬い木。
なので材料として使えるようになるには、最低100年、ものによっては200年〜300年かかるということが判明。
これは、ひとりでできることではないと、平田大一さん(前・沖縄県文化振興会理事長)にお話したんです。
そしたら、数年前に読谷村の座喜味城跡の敷地内で三線を植える事業があったが、
それが終了し半ば宙ぶらりんになっているから、それを引き継がないかと。
それでスタートしたのが『くるちの杜100年プロジェクト in 読谷』です。
月に一度、草刈りをしたり、年に一度は音楽祭をしたり、おかげさまで徐々に参加人数も増えてきてます。
この木が三線になるまでには、100年以上かかりますから、いま草刈りしている人たちは、この木で作った三線の音は聴けないわけです。
でも、「子どもたちがこれで三線を作って弾いてくれるといいな」という共通の夢を持つこととができる。
浪漫ですよね。そして、もしこの木が三線になるということは、
この島には100年〜200年、戦争がなかったということになる。そういう裏のテーマもあります。
■あの大ヒットした名曲、「島唄」が沖縄の戦争について歌っていると知ったのは、
なんと5年ほど前でした。
100年以上かけて育つリュウキュウコクタン。
子どもの、孫の世代を考えて、
三線が作られる時代が続けば、
その分戦争が無かったことになる。
人として、ミュージシャンとしてのMIYAの言葉に心打たれました。
そしてなんと祖父が小笠原の硫黄島で亡くなっていたとは…
僕のひいおじいちゃんは沖縄本島の辺野古です。
沖縄と小笠原と戦争と音楽。
不思議なご縁を感じずにはいられませんでした。
以前、2016年に硫黄島を初めて訪れた時の記事があります。
これは硫黄島の米軍が上陸した浜からすり鉢山を望んだ写真です。
小笠原も戦争さえなければ、
あの時の強制疎開、硫黄島の玉砕が無ければ、
今とは全く違う文化や暮らしの残る小笠原だったと思うのです。
二度とこんな哀しいことが起きないように、
私達は戦争のない世界をどうにかしてでも作り上げなければいけないのです。
これは伊江島のとあるお店に飾られてあった三線です。
この三線が作られる背景について語られた印象深い記事を見たので紹介したいと思います。
僕は小笠原に来た頃によく歌っていた曲があります。
それは20代の頃。
THE BOOMのヴォーカルMIYAこと宮沢和史さんが組んだユニット、
MIYA&YAMIのシングル、「神様の宝石でできた島」です。
元々は父島のおがさわら丸出港の時に、サザンクロスVという船が見送りの時に大音量で流していた曲です。
僕が小笠原ユースホステルやアンナビーチ母島ユースホステルで働いていた頃に、
毎便出港日の前の夜の宴で歌ったものでした。
大事な人の出逢いと別れに歌て来ていて、
今でも歌詞やコードは見なくてもすべて弾ける曲の一つです。
■そんな大好きなTHE BOOMのMIYAが語る戦争と島唄と三線の記事を見つけたので紹介します。
記事の内容です。
【「沖縄」を考える】島唄、三線弾けなかった一節 宮沢和史さん
「朝日新聞デジタル」2019年9月30日05時00分
母方の祖父は硫黄島で戦死しました。
毎年8月15日が近づくと、私の母は、戦争の特集番組を流すテレビに向かって、「なんでだ」「まったくだ」とつぶやいていました。
母の怒りの矛先は敵国ではなく、どうやら「日本」。子どもながらにも、そのことが気にかかっていました。
その意味に気づいたのは20代に入ってから。
音楽への興味から通い始めた沖縄で、ひめゆり平和祈念資料館を訪れたときでした。
10代の女子学生たちが軍国教育や日本軍によって死に追い込まれていったことを知りました。
そうした死も、祖父の死も、政府と軍が選んだ誤った道の果てにあったのだと思い至りました。
何よりも、県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦という日本の歴史を、
20年以上も生きてきて知らなかったことが恥ずかしくなりました。
どうしたらいいのかと考え、僕には歌しかないと作ったのが「島唄」です。
ウージの森(サトウキビ畑)を走り回っていた幼なじみの男女が、
地下のガマで互いに殺し合ったという話も、歌詞にしました。
〈ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら〉
この一節です。レとラを使わない琉球音階をベースにした曲ですが、この歌詞の部分だけは西洋音階です。
琉球音階を使えなかった、三線(さんしん)は弾けなかったという方が正確です。
「日本」が彼や彼女を死に追いやったと知ったからです。
今は辺野古の問題をめぐって日本政府と沖縄の民意が対立していますが、
沖縄の人たちの怒りの中心にあるのは、尊厳の問題なんだと、私は感じています。
同じ目線に立って話をするという当たり前のことを本土の側はしてこなかった。
日本政府の態度やものの言い方には、尊厳に対する敬いや配慮が足りない。
僕の発言で何かが変わるとは思っていないし、こうすべきだと言うつもりもありません。
ただ、遠回りでも地味でもいいから、僕とかかわった人が沖縄について、平和について何か気づいたり、考えたりするような活動を続けたい。
その一つとして、三線のさおの材料になるリュウキュウコクタンを沖縄で育てる活動を始めています。
育つまでに100~200年くらいかかる。僕も含めて誰も生きていませんが、
育てた木で三線が作られるなら、その間は戦争が起きなかったことになります。
(聞き手・藤原慎一)
みやざわ・かずふみ 音楽家 53歳 山梨県出身。
「島唄」で知られる「THE BOOM」(解散)のボーカル。沖縄民謡の保存にも取り組む。
※写真は全て2017年の沖縄で撮影したものです。
そしてこんな裏エピソードがあったそうです。
「島唄」を発表した何年もあとに三線職人の方々と呑んでたら、
「あの歌はとっても良かった、おかげで三線もたくさんの人が弾いてくれるようになったし、俺たちも作り甲斐があるよ。
でもね、あの後から三線の棹を制作する木材、琉球黒檀が足りなくなって輸入が始まったんだよ」と。
その時には、三線職人の方も場を盛り上げるために話してくれたんだろうと思うんですが、僕的には笑えなくてね……。
三線が普及したことがいいことだけど、琉球黒檀の三線が必要な人に、届けることができないということ。
だったら植えて育てるしかないということで、色々調べてみました。
すると、黒檀という木は、三線の棹になるくらいだからとても硬い木。
なので材料として使えるようになるには、最低100年、ものによっては200年〜300年かかるということが判明。
これは、ひとりでできることではないと、平田大一さん(前・沖縄県文化振興会理事長)にお話したんです。
そしたら、数年前に読谷村の座喜味城跡の敷地内で三線を植える事業があったが、
それが終了し半ば宙ぶらりんになっているから、それを引き継がないかと。
それでスタートしたのが『くるちの杜100年プロジェクト in 読谷』です。
月に一度、草刈りをしたり、年に一度は音楽祭をしたり、おかげさまで徐々に参加人数も増えてきてます。
この木が三線になるまでには、100年以上かかりますから、いま草刈りしている人たちは、この木で作った三線の音は聴けないわけです。
でも、「子どもたちがこれで三線を作って弾いてくれるといいな」という共通の夢を持つこととができる。
浪漫ですよね。そして、もしこの木が三線になるということは、
この島には100年〜200年、戦争がなかったということになる。そういう裏のテーマもあります。
■あの大ヒットした名曲、「島唄」が沖縄の戦争について歌っていると知ったのは、
なんと5年ほど前でした。
100年以上かけて育つリュウキュウコクタン。
子どもの、孫の世代を考えて、
三線が作られる時代が続けば、
その分戦争が無かったことになる。
人として、ミュージシャンとしてのMIYAの言葉に心打たれました。
そしてなんと祖父が小笠原の硫黄島で亡くなっていたとは…
僕のひいおじいちゃんは沖縄本島の辺野古です。
沖縄と小笠原と戦争と音楽。
不思議なご縁を感じずにはいられませんでした。
以前、2016年に硫黄島を初めて訪れた時の記事があります。
これは硫黄島の米軍が上陸した浜からすり鉢山を望んだ写真です。
小笠原も戦争さえなければ、
あの時の強制疎開、硫黄島の玉砕が無ければ、
今とは全く違う文化や暮らしの残る小笠原だったと思うのです。
二度とこんな哀しいことが起きないように、
私達は戦争のない世界をどうにかしてでも作り上げなければいけないのです。
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