知床観光船の遭難について、国交相が国会で国の責任を認める答弁をした。
国交相が国の責任とした範囲・内容はよく分からないものの、救命設備の装備や運航管理者の選任や業務に関する法整備とそれらへの監督・監査不備を念頭に置いたものであろうが、それらの全てを厳格に行うことは、云うに易く完全実施は中々に困難であろうと思う。
救命設備の強化に関しては、最も有効であろうと思われるのは膨張式救命いかだ(以下、救命浮舟)の装備であるが、10人用で1基150万円、現有のFRFRP船体への装備工事費用を考えれば、今回の19トンの船体に2基搭載するためには一隻当たり500万円強の負担となる。また、船舶救命設備規則で救命浮舟は年1回の点検を義務付けられているとともに、数年で搭載品を更新する必要があるために、その負担も中小業者を圧迫すると思えるし、それらの全てが厳格に行われているかを現認調査するためには膨大なマン・パワーが必要となる。
運航管理者の選任や業務実態についても、全ての事業者に対して国が現認調査を行うことは不可能に近く、救命設備の整備状況ともども書面審査に依らざるを得ないように思える。
今回の事故の最大要因は、企業と経営者の順法精神欠落と利益優先の思考であると思っているので、それらの要因が改善されない限り法の厳格化のみでは同種事故を根絶することはできないように思える。
これまで日本は、朝野を挙げて許認可廃止・規制緩和によって誰でも少額の資金で起業できる社会を目指していたが、それは日本国民の全てが「善人」で「責任を負う人」であることを前提に語られていたように思う。そのことから云えば、法の厳格化は初期費用と企業運営費を押し上げるために、新規参入の抑制と負担に耐えられない小規模事業者の淘汰に繋がって、目指していた社会とは方向を異にする一面があるようにも思えるが、善人で無い経営者が出現した以上、やむを得ないものであるかもしれない。
明治維新以降の急速な洋風化・過度の利潤追求の世相に対して、士魂商才若しくは和魂商才なる造語で揺り戻しが図られたとされている。
今回の経営者にとどまらず、大企業に課せられた負担を逃れるために中小企業に衣替えした毎日新聞、コロナ対策に異を唱えて提訴した大手外食産業・・を見ると、商才よりも重んじるべきとされた和魂、士魂の美風は失われてしまったように思える。
国の責任を問うことは重要かつ簡単であるが、故石原慎太郎氏が常用した「民度」の涵養の方が、より急務に思えるのだが。