新聞のコラムで、我々が良く口にする「平和」という言葉に多くの解釈があることを知った。
辞書で「平和」は、「戦争が無いこと」と書かれている。この定義に従えば、外交・軍事権すらを清国に譲り渡すことで戦争を防いでいた李朝末期の朝鮮は、内戦を終結させたポル・ポト政権下のカンボディア(クメール・ルージュ)は、平和であったとすることも可能であるが、ルソーはこのような状態を「奴隷の平和」と定義しているそうである。
時代が進んで、平和を「戦争が無く、国内社会でも貧困・格差が存在しない状態」と定義する「積極的平和」という概念に成長し、それまでの「単に(対内外)戦争は無いものの民族の別・原理主義者・特権階級による圧政・不平等が存在する」状態を「消極的平和」と区別しているそうである。
以上のことを念頭に置いて「ウクライナの平和」を考えると、橋下徹氏をはじめとする一部識者が主張する「政治的決着」という「とりあえずの平和」は、消極的平和・奴隷の平和で良しとする前近代的主張で、現在のウクライナ指導部が求めているのは積極的平和であり、国民もその理念に共感して耐えて抵抗を続けていることは明らかであるように思える。
日本国憲法の平和理念を考えると、まさに「究極の積極的平和」を求めていることは間違いのないところであるが、積極的平和獲得のために「戦力放棄」と規定されていることはあまりにも短絡的に思える。コラムで教えられたことであるが、古代ローマに発して以降も欧米では折に触れて引用される「汝平和を欲するならば、戦争に備えよ」という格言があるそうで、積極的な平和は戦争なしでは得られないというパラドックスを見事に表現していると思った。
自民党外交部会が政府に「敵基地攻撃能力の整備」を提言すると報じられて以降、相も変わらず近隣諸国の警戒感を心配する声が聞こえるが、相手に警戒感を持たせることが抑止力であるという原理、積極的平和獲得のために戦争に備えるという原理を考えれば、相手が警戒感を持たない戦力・兵器は侵攻抑止には何ら寄与しないことは明らかであるように思う。
居酒屋の「平和談義」では、言い負かされることも少なくなかったが、その原因は彼我の「平和解釈が異なること」に由来していたように思える。ルソーの「奴隷の平和」は、強力な武器になると思えるので、もう少し勉強してみようと思っている。