ウクライナ事変を機に国内外が劇的に変化する気配が濃厚である。
ウクライナ事変は、世界平和が「力」の均衡に支えられているという現実を改めて示したもので、ほぼ全世界が賛同・共有していた国連憲章の理念すら一人の狂人の「ペン:侵攻命令」の前には無力であることを全世界が知ってしまった。また、「力」の概念についても、近年は武力ではなく経済・文化が主流であるべきとする考えが支配的となり、狂国に対しても経済制裁や文化的価値観の波及・浸透でソフト・ランディングさせることが可能とされてきたが、有史以降20世紀まで信奉されてきた「力=武力」に先祖返りしてしまった。
この動きを列挙するならば、ドイツの兵器輸出解禁、スェーデン・フィンランドのNATO加盟申請、スイスのNATO接近、バイデン大統領の台湾防衛姿勢、韓国の文政権路線否定(南北統一より韓国防衛を重視)が挙げられ、これらは一様に従来は「国是」と位置付けていた事柄の大転換である。
北朝鮮が3発の誘導弾を発射した。3発は長・中・近距離誘導弾と分析され、それぞれ米・日・韓に対するメッセージの意味合いを持つと解析されている。これに対して、米韓は直ちに短距離ミサイルの対抗発射という形で回答したが、日本は「遺憾砲」を発射するしか対抗・応答手段が無い。
国会では補正予算案の審議が行われ、秋の参院選に向けた公約策発表も相次いでいるが、最大野党の政権・自民党攻撃の目玉は、予備費の積み直しと細田議長のセクハラ疑惑とされている。
列国に倣って或いは隣国を凌駕する武力を整備するという徒な軍拡競争に奔ることは望まないが、今こそ論じられるべき安全保障に耳を塞ぎ、目を閉じることは選良の採るべき姿勢ではないと思う。
「他山の石」の格言をを借りれば、ウクライナを転がる石を見ても我が物とし得ない国会議員の姿勢は、将に平和ボケの極致であり、日本の政治家の常套手段である「先送り」の最たるものと思う。
憲法9条死守と自衛隊嫌いを党是とした公明党が、自衛隊の位置付けとシビリアン・コントロールの概念を憲法第5章「内閣」に規定することを模索中とされるが、ポピュリスト公明党ならではの「すり寄り・止まり木探し」で、身を切って安全保障を論じるものではないように思えるが、「火事場泥棒」と一蹴するよりはマシと我慢せねばならないのだろうか。