これも転載である。原文はNPO法人「デフサポートおおさか」の機関誌『デフサポートおおさか』(第20号、2009年08月号)の巻頭に掲載された「会員の声」欄である。執筆者名は「ドラえもん」とある。内容が私には興味深かったので、ここに執筆者や編集者の了承を得て転載する。なお、最後に私が読んだ感想を「コメント」という形でつけ加える。なお、執筆者から私信が届いているので、全文を転載した。あとに触れる。この他にも、この機関誌には多くの豊かな内容があると思う。ぜひ直接読んでほしい。
■ ITを通じたろう者の日本語表現にみる「おかしさ」
インターネット上のブログ(日記)やケータイのメールを通じてろう者の友達とコミュニケーションをとるときに、ときどきおかしな日本語に出くわす。言いたいことは理解できるのだけど、日本語の文法がおかしいのだ。
よくあるのが助詞の誤用。「が」「は」は正しく使えても「に」「を」あたりからおかしくなったり、接続詞を間違えて文のつなげ方がおかしかったり、2文に分けて言うとよいところが、句読点を使い、1文で不自然につないだりしている。
このような文を書いている人は、あまり本を読んだり文章を書いたりせず、手話を中心にコミュニケーションをとったり情報を得ている人だとわかる。手話に助詞がないからだ。
■ 手話を通じて情報を集める人たちの特徴
耳が不自由な私たちは情報を手話のほかに文字から得ている。手話には即時性があるが情報の正確性に欠け、手話がわかる人だけにしか伝わらず情報伝達の枠が狭くなる。
文字には即時性では劣るが正確性に優れ、たくさんの人に伝えられ情報伝達の枠が広くなり、さらに記録としてもカンタンに残せる。メールなら即時性で手話を上回ることも多い。
世の中で起こっていることや福祉関係の情報は最初は文字から入ってくる。ろう者の間で情報交換が行なわれるときに手話が使われるが、情報が誤解されたまま伝わることも少なくない。先に手話で友達から得た情報がインターネットで調べると、間違っていたという経験が僕にもある。
■ いろいろと本をもっと読もう
もっと本を読もう。それもいろいろなジャンルの本を読もう。インターネットでコラムを読むのもよいし、雑誌でもよい。また、労の友達にも本を読むように奨めてみよう。
多くの文章と触れることで、語彙(ボキャブラリー)が多く増え、助詞も含めて正しい言葉の使い方が身についてくる。また、知識も増える。本は皆さんにとって最良の先生となってくれるはずだ。(ドラえもん)
以上が、機関誌「デフサポートおおさか」(2009年08月号)の巻頭にあった原文(多くの読者が読める)の文章である。
■ 手話では「助詞」の表現が少ない――ドラえもんさんの丁寧な追加
以下の執筆者の私信を受け取った。(また、手話には――大谷注)「~(です)か(疑問)」「~から~まで(範囲)」、「~と、~と(並列)」、「~だけ(限定)」、「~ほど(程度)」、「~(だ)よ、~(だ)ね(間投助詞)」、接続助詞「~だが(逆接)」、「~から、ので(原因・理由)」の表現は手話にあります。ほとんどの格助詞、「~と、~と(並列)」以外の並列助詞、「~しか(限定)」以外の係助詞、などは手話にはありません。以上、執筆者の私信をそのまま転載した。
さらに、執筆者の私宛の私信では(以下私による要約。だから伝聞推定の文章となる)、手話には以上触れたようにまったく助詞がないわけではないという。この文章では、助詞は手話では「ない」という表現したが、手話では「少ない」という表現の方が適切だという(手話に健聴者は誤解を持たないように)。
その上で(多分手話であろう)存在する助詞については多くのろう者も正しく使える。ところが、その一方で、手話に存在しない助詞に関して文章中でも正しく使えない人もいるそうだ。存在しないものはちゃんと使えないよな、と私も納得。執筆者によると、手話には存在しない助詞の代わりに別の助詞で文意を通そうとする者もいるという。私に言わせると、同じ意味で別な表現に言い換えることができるなら、その方は日本語を深く理解する能力や表現する力を凄く持っていると思う。
なお、この後、いろいろと日本語が「おかしい」事例もでている。私は手話が皆目出来ない。だから、原因が手話によるものかどうか分からない。正しい日本語の勉強としては、なるほどと参考にはなるが、ここでは省略する。
■ 手話通訳が存在する場合の留意点――大谷のコメント(1)
私は手話ができない。この文章で手話には助詞がないことを初めて知った。多分、手話を使い慣れた人は、わざわざ指摘するまでもなく、すでに周知の事柄だったろう。
私も多くの人の前で話す場合がある。そのときに手話通訳の方々が横に立つ。こうした話をするときにも、手話には助詞がないことを知っていると、私の話し方ももちろんだが、聴衆に手話で理解する人たちにも伝わり方が違ってくるだろう。今後はその点を留意しよう。
あるいは、メンバーたちが手話を使って話をされる場合も多い。そのときもこの特徴について注意したい。他のコミュニケーション手段を使う人も、情報伝達でその方法に関連した特有な留意点があるだろう。
日本語以外の他の国の言語についても通訳が困ってしまう用語があるだろう。日本語は文章の最後になって「である」と肯定したり「ではない」と否定したりする特徴があると多くの識者が言う。だから日本語を外国の言葉に変換する場合、最後まで聞かないと通訳できないともいう。だから、最初に「これは否定的な文章です」とか「これから話すことはあなた方の意見に賛成する予定」とか、通訳しやすいように言い回しに気をつけることが多い。
■ いろいろなコミュニケーション手段を比較している執筆者――大谷のコメント(2)
この文章のなかで、有意義な比較が行なわれている。手話と書き言葉とを比較しているところだ。基準に即時性と正確性、情報の伝わり度合いや記録性がある。
外国の映画でもかつては字幕が多く使われていた(大体平均的な日本語では1秒で2字から4字読めるという――大谷注・清水俊二著『映画字幕の作り方教えます』文春文庫版)。字数の制限があった時代だ。当時、字幕屋さんの努力は、いかに一字でも減らし簡略化する中で技術を競っていた(あえて誤訳もあったそうだ――大谷注・同上。また、太田直子さんは「言葉の詐欺師」とも表現している。太田直子著『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』光文社新書)。
最近では吹き替えによる映画も増えてきた。テレビの影響だろうか。たしかに吹き替えだと俳優のもとの声を消す、日本語の声優が日本語を喋る。手話よりも多くの情報を詰めることも可能だ。また、映画字幕だと次々と表われる日本の文字にスピードや漢字が読めなくて、ついていけない子どもたちや外国人たちにも内容が分かり好評だ。
私は現在のところ印刷された文字を読むだけで、手話が分からない。こうした方法の長所・短所について比較を、実際に担っている人がやると効果があるだろう。そうした記事を読むことを楽しみにしている。
■ 情報を大切にしている北欧の高齢者・障害者たち――大谷のコメント(3)
この記事を読んでいて思ったことは、昔北欧の福祉研修を目的として旅したときに目にした光景である。日本でいうなら要介護高齢者たちが集まってくるデイサービス(北欧は高齢者や障害者たちが積極的に活動する場という本質から「サービス」をする場ではないと「デイアクティビティセンター」と翻訳することが多い)や入所施設でも、午前10時ころにはおやつなどをつまんでテイやコヒーを呑む習慣があるそうだ。集まった高齢者たちと介護職員たちで必ず読まれているのは今日の新聞だという。
奇妙だなと私たちが思ったからだろう。そこで「この人たちは今の社会に生きているのよ」「だから若い頃に収めた税金がどういう風に使われているか、知る権利があるの」「ですから今の社会の動きを知ってほしいのよね」と介護職員さんが、こもごも話してくれた(もちろん通訳を介してだが)。
だから、政府(中央政府だけではなく自治体も含む・以下同じ)が税金を権力が強制的に集めたという印象ではなくて、政府に預金している感じだろう。人生で必要なときは必ず戻ってくるのだから。高齢時に生活を保障しているのは政府だから。そこでも今の政府の情報が大切に扱われていた。
社会の今の情報を必要とする全ての人たちに届ける仕事は重要だ。どんな状態になっても必要な情報を伝える。方法もきわめて大切だ。知的障害者たちが自分たちで新聞も発行している(スウェーデンの知的障害者たちの団体FUBは1976年から“STEGET”という本人用機関誌を発行しているという・河東田 博著『スウェーデンの知的しょうがい者とノーマライゼーション』1992年、原題書館。今はどうだろうか。日本でも始めた記録が野沢 和弘著『わかりやすさの本質』NHK出版、生活人新書、2006年だという)。
■ 指摘する本も増えた「おかしい」日本語の多用――大谷のコメント(4)
最近の日本語がおかしいという指摘は多い。例えば、太田直子著の『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』(同上)や野口恵子著『かなり気がかりな日本語』(集英社新書、2004年)などが思いあたる。だから「助詞」がない手話を通じた情報からだけではないと思う。一般的な傾向だろうと思う。
たしかにろう者の場合は、日本語が「乱れ」ている原因がはっきりしているという違いはあると思う。それに対して健聴者の場合は、若者言葉でのみ通じる仲間の在り方や携帯が原因らしいと推測されている。
野口さんが書いている通り、正しい意言葉遣いを教える立場にある教師などは憤慨するか喜ぶか、諦めて苦笑するだけの人もいる。頓着しない人もいるなどさまざまな対応してしまうので、学生が対処に困るという。
どちらにしても最後の「本を読もう」という呼びかけは大切だ。情報を書いたものから入手する機会が、ほとんどなくなっているように思う(中には本を読むように奨めても、頭が痛くなると応える大学生もいるという)。
■ 私の文章力アップのコツ――大谷のコメント(5)
たしかに、多くの本を読むことは必要だ。本には限らず、それが雑誌であっても、機関紙類であっても、役にたつ。たとえ日本文字であれば、官僚の書いた文章でも、筆に達者な人が書いた文章でも、有益だと思う。
私はインターネットで手にした情報を、紙ベースに印刷して読むことに慣れている。しかも私の偏見だろうが、インターネット上で情報の多くはあまり信用できないように思う。どうも、日本語の勉強にはならないのではないかと思うことの方が多いという感想をもつ。
手話では存在しない助詞の代わりに、別な助詞を宛てる人もいるという。私に言わせると、同じ意味で別な表現に言い換えることができるなら、その方は日本語を深く理解する能力と豊かに表現する力を持っていると思う。
アップのもう1つの方法は、こうして他者が書いた文章を転載することだ。昔、お手本となる本を写すという仕組みがあったという。別にお手本というわけではないが、他人の書いた文章を書き写すことは、自分ならどう表現するか考えるきっかけになる。なんとなく、転載を謳歌する文章になったので、これで終わり。
■ ITを通じたろう者の日本語表現にみる「おかしさ」
インターネット上のブログ(日記)やケータイのメールを通じてろう者の友達とコミュニケーションをとるときに、ときどきおかしな日本語に出くわす。言いたいことは理解できるのだけど、日本語の文法がおかしいのだ。
よくあるのが助詞の誤用。「が」「は」は正しく使えても「に」「を」あたりからおかしくなったり、接続詞を間違えて文のつなげ方がおかしかったり、2文に分けて言うとよいところが、句読点を使い、1文で不自然につないだりしている。
このような文を書いている人は、あまり本を読んだり文章を書いたりせず、手話を中心にコミュニケーションをとったり情報を得ている人だとわかる。手話に助詞がないからだ。
■ 手話を通じて情報を集める人たちの特徴
耳が不自由な私たちは情報を手話のほかに文字から得ている。手話には即時性があるが情報の正確性に欠け、手話がわかる人だけにしか伝わらず情報伝達の枠が狭くなる。
文字には即時性では劣るが正確性に優れ、たくさんの人に伝えられ情報伝達の枠が広くなり、さらに記録としてもカンタンに残せる。メールなら即時性で手話を上回ることも多い。
世の中で起こっていることや福祉関係の情報は最初は文字から入ってくる。ろう者の間で情報交換が行なわれるときに手話が使われるが、情報が誤解されたまま伝わることも少なくない。先に手話で友達から得た情報がインターネットで調べると、間違っていたという経験が僕にもある。
■ いろいろと本をもっと読もう
もっと本を読もう。それもいろいろなジャンルの本を読もう。インターネットでコラムを読むのもよいし、雑誌でもよい。また、労の友達にも本を読むように奨めてみよう。
多くの文章と触れることで、語彙(ボキャブラリー)が多く増え、助詞も含めて正しい言葉の使い方が身についてくる。また、知識も増える。本は皆さんにとって最良の先生となってくれるはずだ。(ドラえもん)
以上が、機関誌「デフサポートおおさか」(2009年08月号)の巻頭にあった原文(多くの読者が読める)の文章である。
■ 手話では「助詞」の表現が少ない――ドラえもんさんの丁寧な追加
以下の執筆者の私信を受け取った。(また、手話には――大谷注)「~(です)か(疑問)」「~から~まで(範囲)」、「~と、~と(並列)」、「~だけ(限定)」、「~ほど(程度)」、「~(だ)よ、~(だ)ね(間投助詞)」、接続助詞「~だが(逆接)」、「~から、ので(原因・理由)」の表現は手話にあります。ほとんどの格助詞、「~と、~と(並列)」以外の並列助詞、「~しか(限定)」以外の係助詞、などは手話にはありません。以上、執筆者の私信をそのまま転載した。
さらに、執筆者の私宛の私信では(以下私による要約。だから伝聞推定の文章となる)、手話には以上触れたようにまったく助詞がないわけではないという。この文章では、助詞は手話では「ない」という表現したが、手話では「少ない」という表現の方が適切だという(手話に健聴者は誤解を持たないように)。
その上で(多分手話であろう)存在する助詞については多くのろう者も正しく使える。ところが、その一方で、手話に存在しない助詞に関して文章中でも正しく使えない人もいるそうだ。存在しないものはちゃんと使えないよな、と私も納得。執筆者によると、手話には存在しない助詞の代わりに別の助詞で文意を通そうとする者もいるという。私に言わせると、同じ意味で別な表現に言い換えることができるなら、その方は日本語を深く理解する能力や表現する力を凄く持っていると思う。
なお、この後、いろいろと日本語が「おかしい」事例もでている。私は手話が皆目出来ない。だから、原因が手話によるものかどうか分からない。正しい日本語の勉強としては、なるほどと参考にはなるが、ここでは省略する。
■ 手話通訳が存在する場合の留意点――大谷のコメント(1)
私は手話ができない。この文章で手話には助詞がないことを初めて知った。多分、手話を使い慣れた人は、わざわざ指摘するまでもなく、すでに周知の事柄だったろう。
私も多くの人の前で話す場合がある。そのときに手話通訳の方々が横に立つ。こうした話をするときにも、手話には助詞がないことを知っていると、私の話し方ももちろんだが、聴衆に手話で理解する人たちにも伝わり方が違ってくるだろう。今後はその点を留意しよう。
あるいは、メンバーたちが手話を使って話をされる場合も多い。そのときもこの特徴について注意したい。他のコミュニケーション手段を使う人も、情報伝達でその方法に関連した特有な留意点があるだろう。
日本語以外の他の国の言語についても通訳が困ってしまう用語があるだろう。日本語は文章の最後になって「である」と肯定したり「ではない」と否定したりする特徴があると多くの識者が言う。だから日本語を外国の言葉に変換する場合、最後まで聞かないと通訳できないともいう。だから、最初に「これは否定的な文章です」とか「これから話すことはあなた方の意見に賛成する予定」とか、通訳しやすいように言い回しに気をつけることが多い。
■ いろいろなコミュニケーション手段を比較している執筆者――大谷のコメント(2)
この文章のなかで、有意義な比較が行なわれている。手話と書き言葉とを比較しているところだ。基準に即時性と正確性、情報の伝わり度合いや記録性がある。
外国の映画でもかつては字幕が多く使われていた(大体平均的な日本語では1秒で2字から4字読めるという――大谷注・清水俊二著『映画字幕の作り方教えます』文春文庫版)。字数の制限があった時代だ。当時、字幕屋さんの努力は、いかに一字でも減らし簡略化する中で技術を競っていた(あえて誤訳もあったそうだ――大谷注・同上。また、太田直子さんは「言葉の詐欺師」とも表現している。太田直子著『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』光文社新書)。
最近では吹き替えによる映画も増えてきた。テレビの影響だろうか。たしかに吹き替えだと俳優のもとの声を消す、日本語の声優が日本語を喋る。手話よりも多くの情報を詰めることも可能だ。また、映画字幕だと次々と表われる日本の文字にスピードや漢字が読めなくて、ついていけない子どもたちや外国人たちにも内容が分かり好評だ。
私は現在のところ印刷された文字を読むだけで、手話が分からない。こうした方法の長所・短所について比較を、実際に担っている人がやると効果があるだろう。そうした記事を読むことを楽しみにしている。
■ 情報を大切にしている北欧の高齢者・障害者たち――大谷のコメント(3)
この記事を読んでいて思ったことは、昔北欧の福祉研修を目的として旅したときに目にした光景である。日本でいうなら要介護高齢者たちが集まってくるデイサービス(北欧は高齢者や障害者たちが積極的に活動する場という本質から「サービス」をする場ではないと「デイアクティビティセンター」と翻訳することが多い)や入所施設でも、午前10時ころにはおやつなどをつまんでテイやコヒーを呑む習慣があるそうだ。集まった高齢者たちと介護職員たちで必ず読まれているのは今日の新聞だという。
奇妙だなと私たちが思ったからだろう。そこで「この人たちは今の社会に生きているのよ」「だから若い頃に収めた税金がどういう風に使われているか、知る権利があるの」「ですから今の社会の動きを知ってほしいのよね」と介護職員さんが、こもごも話してくれた(もちろん通訳を介してだが)。
だから、政府(中央政府だけではなく自治体も含む・以下同じ)が税金を権力が強制的に集めたという印象ではなくて、政府に預金している感じだろう。人生で必要なときは必ず戻ってくるのだから。高齢時に生活を保障しているのは政府だから。そこでも今の政府の情報が大切に扱われていた。
社会の今の情報を必要とする全ての人たちに届ける仕事は重要だ。どんな状態になっても必要な情報を伝える。方法もきわめて大切だ。知的障害者たちが自分たちで新聞も発行している(スウェーデンの知的障害者たちの団体FUBは1976年から“STEGET”という本人用機関誌を発行しているという・河東田 博著『スウェーデンの知的しょうがい者とノーマライゼーション』1992年、原題書館。今はどうだろうか。日本でも始めた記録が野沢 和弘著『わかりやすさの本質』NHK出版、生活人新書、2006年だという)。
■ 指摘する本も増えた「おかしい」日本語の多用――大谷のコメント(4)
最近の日本語がおかしいという指摘は多い。例えば、太田直子著の『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』(同上)や野口恵子著『かなり気がかりな日本語』(集英社新書、2004年)などが思いあたる。だから「助詞」がない手話を通じた情報からだけではないと思う。一般的な傾向だろうと思う。
たしかにろう者の場合は、日本語が「乱れ」ている原因がはっきりしているという違いはあると思う。それに対して健聴者の場合は、若者言葉でのみ通じる仲間の在り方や携帯が原因らしいと推測されている。
野口さんが書いている通り、正しい意言葉遣いを教える立場にある教師などは憤慨するか喜ぶか、諦めて苦笑するだけの人もいる。頓着しない人もいるなどさまざまな対応してしまうので、学生が対処に困るという。
どちらにしても最後の「本を読もう」という呼びかけは大切だ。情報を書いたものから入手する機会が、ほとんどなくなっているように思う(中には本を読むように奨めても、頭が痛くなると応える大学生もいるという)。
■ 私の文章力アップのコツ――大谷のコメント(5)
たしかに、多くの本を読むことは必要だ。本には限らず、それが雑誌であっても、機関紙類であっても、役にたつ。たとえ日本文字であれば、官僚の書いた文章でも、筆に達者な人が書いた文章でも、有益だと思う。
私はインターネットで手にした情報を、紙ベースに印刷して読むことに慣れている。しかも私の偏見だろうが、インターネット上で情報の多くはあまり信用できないように思う。どうも、日本語の勉強にはならないのではないかと思うことの方が多いという感想をもつ。
手話では存在しない助詞の代わりに、別な助詞を宛てる人もいるという。私に言わせると、同じ意味で別な表現に言い換えることができるなら、その方は日本語を深く理解する能力と豊かに表現する力を持っていると思う。
アップのもう1つの方法は、こうして他者が書いた文章を転載することだ。昔、お手本となる本を写すという仕組みがあったという。別にお手本というわけではないが、他人の書いた文章を書き写すことは、自分ならどう表現するか考えるきっかけになる。なんとなく、転載を謳歌する文章になったので、これで終わり。