2020年の東京五輪パラリンピックに向け、ハンディキャッパーのアスリートに関心が集まる中、障害者初の身体能力測定会がこのほど、佐賀県・唐津市で行われた。
一般社団法人スポーツ能力発見協会(大島伸矢理事長)と佐賀県の共済で「スポーツパフォーマンス測定会in唐津」が行われ、県内の小学生250人に加え、初めて小学生以上の障害者20人が「10メートルスプリント」「敏捷性テスト」「ボールスロー」など5種目の測定に挑戦した。
MLBやイタリアセリエAなどトップアスリートが使用する世界最新鋭の測定機器を使い身体能力を測定。通常は向いているスポーツや各種運動能力の伸ばし方などのアドバイスが目的だが、抜群の身体能力を持っている子供達を発掘するプログラムの一環でもあり、その取組を障害者にまで広げた。
測定に訪れた健常者と障害者が一緒になって、パラリンピック種目の車椅子テニスや全国障害者スポーツ大会種目であるフライングディスクの各種目体験も実施された。会場には元ヤクルトスワローズの川崎憲次郎氏、男子200メートルハードルアジア最高記録保持者の秋本真吾氏、今年の世界テコンドー選手権女子57キロ級で、同選手権日本人史上初となる金メダルを獲得した地元佐賀市出身の濱田真由選手、さらにはJI残留を決めたサガン鳥栖の豊田陽平、金民友の両選手もゲストで訪れ、参加者を激励した。
この測定会は2013年11月に東京都内で行われてから今回で15回目。「健常者にも障害者種目を体験してもらうことで、パラリンピックを身近に感じてほしい」と大島理事長は語っているが、健常者、障害者を問わず、全国には高い能力を持っているのに、気ずかない子供達が大勢おり、2020年に向け、未来の「金メダリスト発掘プログラム」が注目を集めている。
国際線ターミナルではANA/JALの両CAによる補助犬のデモンストレーション
全日本空輸(ANA)は10月31日、補助犬(身体障害者補助犬)を伴った障がい者が航空機の利用を体験するツアーを実施した。このツアーは日本身体障害者補助犬学会の学術大会が、羽田空港で開かれることに合わせて実施された。
日本身体障害者補助犬学会の学術大会は「補助犬が拓く楽しい旅、やさしい社会~2020年に向けて~」をテーマに、2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックに向けて、すべての障がい者が快適に日本国内の旅行や移動が出来るように、学会と航空関係者が協力し実施された。
補助犬は、視覚や聴覚、手足に障がいのある方の生活を手伝う存在で、身体障害者補助犬法に基づき認定された特別に訓練された犬。公共交通機関をはじめ、人が立ち入ることが出来るさまざまな場所で、受け入れるように義務付けられている。
今回のツアーでは、介助犬3頭、盲導犬と聴導犬がそれぞれ1頭と、視覚や聴覚が不自由な方や普段車椅子を使用している方が参加し、空港での搭乗手続きや保安検査、航空機への搭乗から到着後までの一連の流れを体験した。
ANAでは、搭乗の際にお手伝いが必要な利用客の窓口として「ANAおからだの不自由な方の相談デスク」を設けている。羽田空港では「スカイアシストカウンター」を用意し。搭乗手続きから保安検査場、航空機までの搭乗を専門のスタッフがサポートする。
スカイアシストカウンターは保安検査場Cの横にあり、カウンターから直接専用の保安検査場へ向かうことができる
ANAスタッフとツアー参加者
2015年10月31日 実施 トラベル Watch
8日に大分市で開催される大分国際車いすマラソン大会(県、日本障がい者スポーツ協会日本パラリンピック委員会、大分市、大分合同新聞社など主催)が間近に迫った。35回目の節目を迎える大会は、国内外のトップアスリートが集う世界最高峰のレースである一方、市民ランナーにとっては自己への挑戦の場でもある。それぞれの思いを抱き、スタートラインに臨む選手たちを取材した。(5回続き)
平日の昼間。別府市にある別府重度障害者センターの体育館をのぞくと、若い男性3人が室内練習用のローラーにレーサー(競技用車いす)を固定し、黙々と車輪をこいでいた。センターには頸髄(けいずい)を損傷し、重い障害のある人がリハビリのために全国から集まっている。毎年、大会に新しい選手を送り出し、今年も3選手がハーフマラソンに挑む。
障害が最も重いクラスのT51にエントリーした木下哲也さん(27)=滋賀県出身=は小学校教員で、水泳の飛び込みの指導中に大けがをした。胸から下がまひし、指も動かない。前回大会を観戦し、センターの卒業生が7回目の挑戦で初完走したのを間近で見た。「挑戦し続けるってすごい」。大きな刺激を受け、6月から本格的な練習を開始した。
同じくT51の志良堂(しらどう)清己さん(28)=長崎県出身=は造船所での勤務中、クレーンのつり荷が体に落下し、障害を負った。運動好きで、車いすバスケットボールに取り組んだが、思うようなプレーができず、もどかしかった。マラソンを始めたものの練習はきつく、くじけそうになった。隣を見ると一生懸命、車輪をこぐ仲間。「もうちょっと頑張ろうか」。気付けば体力が付き、日常生活でも疲れにくくなっていた。
もう一人はT52の山本孝一さん(46)=奈良県出身。趣味のロードバイク大会の帰り道、ブレーキの故障で山の斜面に激突した。車椅子生活になり、外出がおっくうになった。そんな時に出会ったのがマラソン。大分市の河川敷を走ると、ロードバイクで感じていた壮快感がふとよみがえった。「風を切りながら走る。この感覚を再び味わえるとは思ってもみなかった」。外出が楽しくなった。
3人ともマラソンを始めてから、自分自身の変化を感じている。筋力が高まったことはもちろん、生活にも張りが出て心に余裕を持てるようになった。周囲にも目が向き、センターの職員や家族など、支えてくれる人たちのありがたみに感謝する。
木下さんと志良堂さんは「5キロ地点の関門の突破」、山本さんは「完走」を目指す。目標は違うが、「互いの存在が力になっている」と口をそろえる。「大会に出場したら、またきっと自分に良い変化があるはず」。山本さんがそう言うと、2人はうなずいた。
※この記事は、11月1日大分合同新聞朝刊21ページに掲載されています。
▼視覚障害者のスポーツで独特のルールがある。1チーム10人の選手のうち、4人以上が全盲でなければいけない。投手は全盲の選手が務め、捕手が手をたたいたり声を掛けたりしてストライクゾーンを指示、それに従ってボールを転がす。
▼ボールはハンドボールほどの大きさ。中に鈴など音を出す仕掛けは入っていないので、バッターはボールが転がるかすかな音を頼りにバットを振る。スイングは鋭く、的確にボールを捉えていた。
▼全盲選手が走るときは、コーチが手をたたいてベースの方向を指示する。全盲の選手がゴロを捕ると、フライを捕ったのと同様にアウトになる。グランドソフトボールのGRANDには「感銘的な」という意味があると聞いて納得した。
▼私事ではあるが11年前、右足首を複雑骨折し、2カ月間、松葉づえで過ごした。ギプスが取れた後も足首の関節はぐらぐらで深く曲がらなかった。元通りに歩けるようになるまでに2年かかった。障害のある人の苦労は頭では理解していたつもりだが、自分がその立場になって初めて分かることがあまりにも多いと知った。
▼いまは元気でも、病気やけが、加齢により誰もが障害者になる可能性がある。そんな時に、スポーツに取り組む選手たちの姿を思い出したい。
(2015年10月31日更新)
◇「貸本」70作 武石さん きょう講演
戦後の漫画草創期、耳が聞こえない障害を抱えながら、少年向け貸本漫画の作品を数多く手がけた武石豊一さん(82)(東京都)が、当時の活動を手話で語る講演活動を続けている。11月1日には、京都国際マンガミュージアム(中京区)で健常者向けに初めて講演し、「夢をかなえるのに障害は関係ない」と思いを伝える。(白岩秀基)
武石さんは貸本漫画の全盛期だった1954年、20歳でデビュー。「咲花洋一」のペンネームで、口から冷気を出す怪獣が世界を恐怖に陥れる「冷凍ラドラ」など冒険活劇やSFを中心に、13年間に約70作を発表した。
当時、読者には明かしていなかったが、武石さんは3歳でかかった百日ぜきの影響で耳が聞こえず、会話もできなかった。
幼い頃から漫画が好きで、ろう学校高等部時代、学校を訪れた「のらくろ」の作者・田河水泡さんに絵をほめられ、漫画家を志した。
「ドーン」「バキューン」といった擬音の書き文字が漫画に取り入れられ始めた時代。音が聞こえない武石さんは、どういう表現が適切かわからず、本を何冊も読んで研究。編集者とは筆談でやり取りしていたという。
しかし、60年代にテレビや漫画週刊誌の時代になると貸本漫画の人気は衰え、武石さんも67年に引退した。
その後は刺しゅうの仕事で生計を立てていたが、聴覚障害者の友人から「ハンデを乗り越えて活躍した事実が埋もれてはもったいない」と説得され、昨年1月から東京のろう者らの集まりで講演を始めた。その後、大阪や神戸などでも実施。参加者から「子供の頃に読んだ」と言われることもあり、武石さんは「覚えていてくれたとは」と顔をほころばせる。
京都精華大国際マンガ研究センターの雑賀忠宏研究員は「ハンデを抱えながら10年以上人気作家として活躍したのは驚きだ。貸本漫画家は高齢になっている人が多く、証言は歴史的にも価値がある」と話す。
今回の講演会は、活動を知ったマンガミュージアムの依頼で実現。1日午後2時から。講演は無料だが、入館料(大人800円)が必要。定員50人。会場では武石さんの作品の一部を展示する。
<貸本漫画> 1950年代から60年代前半まで、貸し出し専用に発刊された漫画。「貸本屋」は全盛期の50年代後半に全国で約3万店あったとされ、毎月200冊ほどの新刊が出た。1泊の料金は10円程度。冒険活劇や探偵もののほか、少女向けの作品もあった。テレビの登場や週刊漫画誌の登場で、衰退した。水木しげるさんのほか、「鉄人28号」の横山光輝さんらも手がけていた。
武石さんの作品「冷凍ラドラ」((c)咲花洋一・兎月書房刊