いうまでもなく、ロシアの文豪、トルストイの長編小説です。レフ・ニコラエウィッチ・トルストイがフルネーム。高校を卒業し、大学に入学した頃、大学の図書館の重々しい雰囲気と所増数、それに英語の本がたくさんある!ということに感動したものです。ちょうど5月の新緑の季節で、窓から差し込む光もツタの葉も時折聴こえてくるチャペルの音も、全てが神々しい感じ… 中学時代は氷室冴子さん、新井素子さんの小説にどっぷり浸かり、高校では夏目漱石や芥川龍之介といった日本の文豪も加わりつつ、最後に読んだ「風と共に去りぬ」 入学先は英文科だったこともあって、「ここは1つ、英語圏以外の海外の小説を読んでみよう」と色々と手に取ったものでした。トルストイもその中の一つでしたが、あまりに多くの登場人物が下を噛みそうな名前で記され、何が何だか… 高校時代、「海外へ行けば、尋ねられるのは日本のことだから!」という理由で日本史を選択した私には歴史的背景も何も分からず、いきなりこの長編に挑もうというのが、そもそも無理があったように思います。その一方で、フランスの作家、サガンは読みやすかったと記憶しています。「悲しみよ こんにちは」など、ラストの場面で主人公の女性が、「私、おばあちゃんなの…」という場面など… 当時は自分が若かったから、こんなこと…ありえないだろうけど、でも…そうなんだぁ…流石フランス人女性って、いくつになっても恋をするんだなぁ…でもやっぱり有り得ない、と思ったものです。もう一度、読んでみたいと思うものの、なにせ読みたい本が数多く存在しているので、いつになるやら。今回は、遥か昔にギブアップした、「戦争と平和」を手に取ってみました。翻訳者はなんと熊本出身、北御門二郎氏。生まれも半分育ちも熊本な私には親近感があります!東海大学出版会、2001年初版のハードカバー、上段、下段‼ 印字も小さく、こんなに分厚い本を手にするのは、いつ以来だろう…? 今回、大学ではなく地元の図書館で文庫本を探しましたがハードカバーしかなかったため、気分を新たに読み始めました。HNKで放送された映像を見たため、今回は登場人物の名前を見たとたん、役者さんの顔が浮かびます。莫大な遺産相続者となってしまうことで、人生が大きく変わることになる主人公のピエール…主人公なのに、すぐには登場しません。学生時代に読んだ時は、誰が主人公かも分からないまま挫折しましたっけ。彼の親友、アンドレイ公爵、彼の妹のマーリアと小難しい父、ニコライ老公爵、ロストフ家のニコライ、ナターシャ、ソーニャ等々。彼らを中心に物語は動いていくのだと分かった上で読むと、こんなにも現代に通じるのか?と思うほど、身近な題材ばかりでした。
まず、マーリアと父の関係。ちょうど、「お母さん、娘をやめていいですか?」というドラマがNHK総合で放映中(今週中に最終回、金曜日だったかな?)ですが、あのドラマの主題ともリンクする場面があります。娘の結婚話が持ち上がった際、どうにかして回避しようとする、ニコライ老公爵の心理状態が、これはもう~読ませます! 当たり前ですがドラマ(映像)では、ここまで表現出来ません。自分はマリアの幸福を想うからこそ、結婚しても何も良いことなど無いのだと説く公爵。
「いや、だが、マーリアが望むのであれば、自分であの男の所へ嫁ぐことを決めればよろしい、選択権は娘にあるのだから!」
と、言いつつ、
「私にはお父様と一緒の生活以外、想像できません」
とマリアが言わざるを得ないように誘導していく…公爵には娘の結婚話を破綻にし、自分か?男か?二者選択を迫ることで娘の自由を奪っているという認識がありながらも、いや、これは娘が不幸にならないためだと自身を正当化する。18世紀のロシア、かたや21世紀の日本。ロシアの上流社会も、日本の一般家庭も、娘の結婚に対する親の心情は共通するというのが痛快です。文豪トルストイは、まさか自分の小説が何百年も後に東洋で、「こんなに分かりやすく親の心理を描いた小説だったなんて! 東洋西洋時代を問わず、普遍の悩みなのかも…?」と、深~く納得されながら読まれるなんて、想像すらできなかったでしょうけど。確か、太宰治の「人間失格」を読み終えた時、「のちの作家はもう何も書くことがない」と思ったと何処かに書きましたが、今回も同じことを思いました。それでも人々が生活をし、日々を過ごす中、小説は生まれますよね。多少、形態は変わっても…。
『お母さん、娘をやめていいですか?』の中で斉藤由貴が演じる母親は料理や買い物、お出かけ等、いつも一緒に行動する仲良し母娘。一卵性親子なんて言葉も一時期、流行しました。
一方、ニコライ老公爵は日頃、娘に優しい言葉の一つもかけられない、厳格で威圧的。
しかし斉藤由貴演じる母同様、娘に精神的に寄りかかり子離れ出来ないでいるという問題点は共通。ニコライ老公爵は娘が心優しく父親想い故に、結婚によって家を出ていけないよう、心理戦で仕向ける…… 自覚していないようで、実は自覚している、そこを自分のためでななく娘のためと正当化し、娘の回答に納得し喜ぶニコライ老公爵も、行動派で娘を追いかけまわす斉藤由貴演じる母も、どちらも心の根底にあるものは同じ。ニコライ老公爵は亡くなり、マリアは結婚しますが、最終回のNHKドラマはどうなるのでしょうね。
この小説のタイトルは「戦争と平和」です。勿論、戦闘場面も多く登場し、ドイツ語、フランス語も飛び交います。この時代、いってみればロシアはヨーロッパの中では後進国(ローマ帝国からスイス、フランス、ドイツ、大英帝国などヨーロッパの歴史が始まったことを思えば、という意味ですが)この辺の事情も今なら少しは理解できます。ロシア皇帝の存在意義も、ナポレオンも、或は、「戦場にありてはシーザたれ」((370ページ下段13行目)に至っては、どれだけジュリアス・シーザー(カエサル)が当時のトルストイ、或はロシアにとっても大きな存在だったかも。
「戦争と平和」をひと言で表現するなら、338ページで描かれる「空」だろう。最も激しい戦闘のシーンで、アンドレイ侯爵は仰向けに倒れ、それまで目まぐるしく彼の周囲で起こっていたこと、戦闘の様子が全く見えなくなる。
「眼に映るものとてはただ高い空ー晴れてはいないけれど、それでも果てしなく高い空と、その面を静かに流れる灰色の雲だけであった。≪何という静けさ、安らかさ、そして壮厳さ、さっきまで走っていたのとはまるで別世界だ≫とアンドレイ公爵は思った。」(338ページ上段8行~9行目から引用)
アンドレイは、ほんの一瞬前まで憎悪に燃え、フランス兵と戦っていたが、頭を叩かれ倒れたことで気付く。
≪どうしておれは今までこの高い空を見なかったのだろう? しかしついに気付いたおれは何と幸福であろう。そうだ! この無限の空以外のものは一切が虚妄に過ぎない。この空のほかには何一つない。いや、それすらもなくなって、あるのはただ静寂と平安だけだ。これでいいのだ!…≫ 338ページ(17~21行)
無限の空以外は虚妄…一切の争い事は、ただ虚しいだけ…。もう一つ心、心にに残った「自分の生き方」について、主人公ピエールと戦争から戻り、田舎で静かに暮らしていたアンドレイ侯爵のやり取りを引用しておきます。アンドレイ侯爵の台詞から~
「しかし誰にも自分の生き方というものがあるからね。君は自分のために生きて、そのため危うく自分の生活を滅ぼしかけたが、他人のために生きるようになってはじめて幸福を知った、と言う。ところが僕はその反対の経験をしている。僕は名誉のために生きた(一体名誉とは何か? やっぱり他人に対する愛じゃないか? 他人のために何かをしたいということ、他人からの賞賛を受けたいということじゃないか?)で、僕は他人のために生きて危うく、というよりもすっかり自分の生活を滅ぼしてしまった。でもその後、自分一人のために生きるようになって以来、平穏に暮らせるようになったんだ」
「しかし、どうして自分一人のために生きられるでしょう?」とピエールは言った。「子供さんは? 妹御は? お父上は?」
「いや、それは僕自身のようなもので、他人とは言えない」アンドレイ公爵は言った。「しかし君やマーリアの言う他人、隣人、同胞ってやつ、le prochain 、これが迷妄と悪の主要な源泉なのだ。その同胞というのが、つまり君が善根を施そうとしたキーエフの百姓どもさ」(462ページ下段2行~21行目から引用)
同胞という「くくり」 或は、行き過ぎた「ナショナリズム」が紛争や戦争の引き金となりやすい、ということをアンドレイ公爵は悟った、ということだと思いました。あくまで「行き過ぎた」同胞意識ですが。
宗教、奉仕活動等、色々と繊細な話題でもあるので、個人的意見は控えますが…色々と考えさせられるロシアの若者二人の会話です。アンドレイとピエールの友情、語り合える存在…ゴシップや噂話が会話の中心であることが多い中、(それはロシアの社交界でも同じですが…)男同士だからこそ、なのか…? お互いの関係が羨ましい限りです。