待合室で待っている間、ドアの向こう側ではいつもの担当医と研修医が打ち合わせをしていた。
「前回は、かなり緊張が高まっている状態でした」
「そうなのですか? 私には普段と変わらない様子に見えましたが・・・」
「あなたはまだ、この病院に来てから一週間しか経っていないのですから、微妙な表情の変化に気付けなくて当然ですよ。そんなときは、私がフォローしますから、安心してください。これが、患者さまのファイルです。これまでの診療の経過等が記録されていますから、目を通しておいてください」
「はい、分かりました」
ドアの向こう側から聴こえてくる ひそひそ声。
おかしい。ドア一つ隔てて・・・とはいっても、あんなヒソヒソ声が待合室にいる当事者の「患者である あ・た・し にまで届く筈がない。
試しに「聴こえていた。いや、聴いていた」と担当医に言ってみようか。
記録にタイプされる文字が透けて見える。
「今回も幻聴が頻繁に起こっている」
「記録の文字が読めたという訴えあり。担当医が「・・・・」と記録にタイプしている様子を見たという。幻覚あり」
ドアの向こう側では、さらに、こんな やり取りも行われていたのだ。
「これまでの精神科の診察では、ただ単に、今日の気分はどうですか? やる気がないようですね。では、やる気を起こさせるお薬を処方しておきましょう、という程度のものでしたが、最近は欧米諸国のカウンセリングで行われている方法も現場で実践されるようになってきました。今回は、その手法で行います。いわゆるロールプレイです。事前に患者さんが興味があることや、これまでのロールプレイで何が話し合われたかを記録で確認しておいてください」
担当医は威厳たっぷりに自信を持って解説する。かえって不安が増した様子の研修医。自分には、緊張が高まっていることすら、気付けないから…と自信無げに心のうちを担当医に言う。
「ですから、大丈夫です。そんなときは、私がフォローしますから。一つだけ、覚えておいてほしい大切なことは、今回の患者さんは、心を閉ざしてなかなか喋ってくれません。特にあなたのような知り合って一週間、しかも、まだ一度しか面識のない人に対しては、名前を述べる程度で会話にすらならないかもしれません。でも、決して何か、しゃべらせようとプッシュするよなことだけは避けて下さい。いいですね?」
「了解です」
数秒後、あ・た・しの名前がコールされた。
「城所さま。診察室Aへ お入り下さい」
あ・た・し、の名前だ。すくっと立ち上がる。
先ほどドアの向こう側で聴こえていた会話は、きっと幻聴なんだ。あ・た・しがドアを開けば、そこにいるのは きっと、いつもの担当医だけに決まっている。
あ・た・し、はスーッと前方へ進むとドアをノックした。
「お入りください」
ほら! いつもの担当医の声。他に誰もいるはずがない。 あ・た・し、はドアを開け、一歩、足を踏み入れた。光の向こうに白衣を着た二つの影が見える。一つは担当医。もう一つは・・・
あああああ、あ・た・し、は やはり病気なのだ。いつものように、ヒドイ幻聴。幻覚に悩まされている。薬の量を増やされるだろう。
「城所さん、どうぞお入りください」
あ・た・し、は診察室に入室した。
「こんにちは。久しぶりですね。一週間前に初めてお会いしましたね。私は千夏といいます。どうぞ、おかけください」
丸椅子に腰を下ろすと、千夏の顔が自分の前に見えた。そう、真ん前に。千夏と名乗る女のひとがほほ笑んだそのとき、急に担当医の携帯電話がけたたましく鳴りだした。
「ちょっと、失礼」
担当医が背中を向け、話をしている間中、あ・たし、に千夏は話しかけていた。
時間にしたら、5分程度かもしれない。でも、一時間も数時間も、何年も会話をしているような錯覚に陥った。やっぱり、時間の感覚が分からなくなっている あ・た・し、はオカシイのかもしれない。
城所さんは、スイスへ行ってみたいそうですね。私も海外暮らしが長かったので、色々な国へ立ち寄りました。城所さんが好きな牛乳もひろ~い牧場があるスイスなら、たっぷり飲めるわよ! クリーミーな料理やチーズが好きだそうだけど、私もグラタンやチーズをたっぷり乗せて焼くピザなんて好きだな~。城所さんは、スイスの他に行ってみたい場所はある? **牧場? この近くね。週末、お天気なら行ってみるといいわね。 え? 自分でグラタンを作るの? 数年前まで作っていた? 最近は全く? でも、今夜、作ってみたい? それ、いいわね!
きっと、幻聴なんだ。弾む会話も。千夏という名の何処か懐かしい姉の面影がある女性との弾む会話も。
でも、こんなオカシサなら、ずっとオカシイままでいい。
なんだか、さっきまで、あ・た・し、は何もできない。したくない、と思っていたのに。今夜は大好きなグラタンを作って、週末には隣町の牧場へ行けそうな気がしていた。一年ぶりになるだろうか。公共のバスに乗るのは・・・。付き添いで一緒に来てくれた母は何というだろう?
携帯電話をいつの間にか、切っていた担当医が驚いた様子で あ・た・し、を診ていた。
「千夏さんに、何か質問はありませんか?」
担当医は何かを試すように、あ・た・し、に言った。
イッパイ、アルワ。ア・タ・シ、モ、ガイコクニ カツテ、スンデイタ コト、アルモン。アタマガ オアシク ナッテカラ、イケナクナッタダケ。
「はい。たくさんあります。千夏さんは海外ならどこへ行ってみたいですか? 食べたいものは何ですか? 料理は得意ですか? 何を作りたいですか? お姉さんはいますか? あたしにもいます。最近、あたしのせいで疲れているけれど・・・でも、きっと仲良くなります。千夏さんに似ているから。動物は好きですか?・・・・・エトセトラ、エトセトラ、、、、、、」
ゴムマリガ ハズム ヨウニ カイワモ ハズム。タントウイワ、オモシロクナサソウナ カオ。ナゼ? ア・タ・シ、ガ ミテ アゲヨウカ? ドコガ、ワルイノカ?
今日は会話にならないかもしれない筈だったのに。あぁ、あれは入室前の幻覚・幻聴なんだけど。予定では5分か10分程度の診察になるはずだった? 期待を裏切った あ・た・し。だから不機嫌な顔してる担当医? いや、これは幻覚、幻覚・・・・。
「城所さん、では、私に何か質問はありませんか?」
「ありません」
あ・た・し、は即座に答えた。あるとすれば、ひとつだけ。
ドウシテ コワイ カオ シテイル ノ デスカ? キケナイ、キケナイ・・・・。
「何でもいいのですよ。何か一つくらい、聞いてみたいこと、あるでしょう?」
「あ・・・ありません・・・」
「どうして? 千夏さんには、あんなにたくさん質問していたのに」
あ・た・し、の手は段々汗ばんできた。緊張が高まっているんじゃ・・・そんな不安げな表情を浮かべたのは、千夏だった。
アレ? プッシュ シテワ イケナイ イケナイ、 チガッタ???
あ・た・し、には分かる。今、千夏さんが何を考えているか。担当医の心は どんな感情に支配されているか。
あ・た・し、は声がか細くなっていった。
「ないんです」
「そう? じゃあ、千夏さんに何か質問ある?」
ある、といったら、とんでもないことが起きそうだった。とっさに嘘をついた。
「ありません」
「そうですか。千夏さんにも質問は無いのですね?」
担当医は ようやく安堵の表情を浮かべ、ほほ笑んだ。この日に あ・た・し、が見た担当医の最初の ホンモノノ笑顔だった・・・・。
この日の あ・た・し、の患者ファイルの記録は、ほとんど白紙だった。担当医は千夏さんと あ・た・し、との間に交わされたほとんどの会話は記録する価値がないものとして処理したのだろうか。オカシナあ・た・し、には分からない。
でもね。
担当医を診た あ・た・し、の精神科医ファイル には、 たくさんの記録が残されていた。
シット アセリ センモンイ ノ リョウイキニ タッシテイナイ ミカンセイ
ファイル ナンバー 38
完