朝靄の中、先っぽが尖った三角帽子をかぶったピエロが踊っている。「う~ひひっ!」 意地悪な笑い声。 カエルのように伸び縮みする両手両足。 ピエロの顔は見えない。 でも、それが誰なのか、私には…今夜の主人公、「しずく」には分かっていた。しずくが必死になって追いかけて、やっと追いつきかけるとピエロは背を向けて走り出す。朝靄の彼方へ小さくなったピエロの影が消えかけた、その時、
「こっち! こっち! しずく! 早くしないと置いて行くぞ!」
突然しずくの方へ振り返り、ピエロは言う。 いや、32歳の父は言う。若い、といえる年齢なのだろうか。 32歳って…? 少なくとも幼児だった しずくにとっては、相手は大人だ。身体の大きさからいっても。 そして何よりも おどけているピエロは、しずくにとっては血が繋がった父親なのだから。 小さな子供にとって、父親は大人の筈だもの。しずくの方が大人みたいって心の中で、こっそりと思うことが多かったとしても。でも、声に出しては言えない。誰もいないとき、「親の言うことが聞けんのか!」って殴られるから。母親に話せば庇ってくれる。でも、そんな母も24時間しずくと一緒に居る訳ではない。だから置いてけぼりにされそうになることも、もちろん秘密。あの人に後でもっと叩かれるから。
幼い しずくにとって、父と共に出かける道中は、恐怖そのものでしかなかった。昭和と呼ばれた時代。 メインストリートは真夏には溶けだしそうなアスファルト。だけど一歩、横道に逸れると、雨の日には水溜まりだらけになる、でこぼこ道だった。
夢の中のピエロは、あぜ道を好む。実際に しずくが知る父も、幼い しずくを連れて歩く散歩の途中で、横道に逸れることが大好きだった。突然しずくの視界から消えては、よその家の倉庫の影に息を顰めて隠れている。倉庫の隙間から、不安げな幼子の様子をこっそり見ては喜ぶのだ。
大企業の社宅へ引っ越してきて、まだ日が浅かった頃、しずくは見慣れない家々やビル、知らない人々とすれ違う度に、「いなかのお家へ帰りたい! 牛さんや馬さんたちと、それからおじいちゃんとお母さんと一緒に暮らしたい。昔のように、お父さん一人で社宅に居ればいいのに」 と強く願った。 3歳まで離れて暮らした父と二人でお使いへ行かされる時は決まって 津波のように不安が押し寄せてきたものだ。迷子になって、自分のアパートがどれなのか、見つけ出せないかも? って。 永遠に 「お母さん」に会えなかったら、どうしよう。もし、そうなったなら、しずくは もはや生きてはいけない。しずくの歩調に合わせて一緒に景色を眺めながら歩いてくれたおじいちゃんが天国っていう遠い空の彼方へ旅立ってしまったあと、ほっとできる背中の持ち主は、しずくにとっては母だけだった。あのピエロは誰? あんなの父じゃない。 父の背中はもっと広くて貫録があって、安らぎを与えてくれる筈だもの。 30歳になった、しずくは夢の中で思う。 今、しずくは夢を見ているだけなのよ。そう、今は夢の中だと おぼろげながらに分かってはいても、引き離されまいと、必死で走る! もがく! 「お父さん、待って! しずくを置いていかないで! お家へ帰れなくなっちゃうから」 息切れして声にはならない叫び声。何度も転びそうになりながらも遂に、しずくは父の背中に追いついた。
ところが父は、、、いや、ピエロは、、、いや、違う。ピエロの衣装をまとった父は、、、にやっと笑みを浮かべると、再びダッシュで駆け出す。十数メートル離れた時点で、「うっひひ~」と奇妙な声で笑いながらクルリと回転し、「ここまでお出で~」 と笑う。
やっと追いついたのに…。しずくは何とも言えない感情に襲われる。その場に座り込みそうになりながらも決して泣くまいと必死に耐えている。くやしさと怒り、そして何よりも 「置いて行かれる」という恐怖心から、しずくは再び必死になってピエロの背中を追いかけた。 しずくの太くて ぽよっとした短い足が縺れていう事をきかない。 でも、急がなきゃ。もっと早く走らなきゃ! しずくが石ころに躓いてこけても、父は助けにもこない。それどころかピエロは、しずくが半ベソかいて追いかける様子を満足げに眺め、最後はニタッと笑う。 この世にこれほど愉快なことなどない、という面持ちで、我が子である筈のしずくを眺めている。 幼いしずくは心底ぞっとした。 「お前は橋の下に捨てられていたから、拾ってきた」 時折、冗談だよと笑いながら、父は言ったものだった。 もしかしたら、本当かもしれない。大人になったら調べようって幼いしずくは何度か思った。 走っても走っても追いつけないピエロを、いや、父の背中を憎んだ…。
時々、しずくは思う。しずくにとって父親って何だろう? 血の繋がり以外に、人はどうやって父と子を実感するのだろうって。 しずくには分からない。 朝もやの中で、いつも走っては振り向き、両手を伸び縮みさせている人がピエロではなく、しずくの本当の父ならば…。尚更、分からなくなる。
今、しずくには幼い息子がいる。片道20分の坂道を息子と二人、買い物へ出かける。行きは下り坂。 でも、帰りは見事な上り坂だった。
「少し休憩しようか。雄太、疲れたでしょう? お茶を飲もうね」
しずくは息子用の水筒を取り出すと、膝に座らせた。3歳にしては筋肉質の雄太の足をさすってあげる。
「歩ける? 歩けそう?」
「うん」
初夏の風が雄太としずくの頬を撫でる。汗ばんだ身体がひやっとし始めた頃、雄太としずくは再び歩き出す。最後の山場を迎えたとき、しずくは雄太を背中におんぶする。
「雄太、しっかりお母さんの肩につかまっていてね!」
「うん、分かったよ!」
この坂を上りきったら、我が家だ! …と、そのとき、しずくの肩からバックがズリ落ちた。 バックの紐が肩から落ちないように必死で持つ、雄太の柔らかい手。
「お母さん、僕、もう歩けるよ!」
「大丈夫よ、雄ちゃん。もう少しだから」
そういいつつも、雄太の気持ちに答えたいと思った時は、坂を上りきる直前に、背負った雄太を降ろした。
「雄太がお荷物、持ってあげる!」
そういいながら、しずくの腕から買い物袋を受け取ろうとする雄太。その内、一番小さなものを雄太に手渡しながら、何度も「雄ちゃん、ありがとうね。優しい子に育ったね」とほほ笑んだ。
「だって、お母さんがいつも雄ちゃんに優しいもん!」
雄太の台詞に、しずくの胸は熱くなった。何度も。何度も。繰り返された日常だった。
それは雄太と、雄太の祖母、つまりは しずくの母と、雄太しかしらない 「母の背中」の思い出だった。
今夜も しずくの夢の中では、父の背中が遠のいて行く。 段々見えなくなる…。 でも、必ず振り返って道化が笑う。
「しずく! 追いつけるなら、追いついてごらん。置いていくぞ!」
こんな恐怖心に満ちた親子関係は、しずくで断ち切ろう。 それが出来て良かった。 今夜も夢に出てくるのだろうか? あのピエロが。 そうしたら、教えてあげようっと。
「大丈夫よ。私は貴方から親として、絶対にしてはいけないことを きちんと学べている」、と。
先日、しずくは本屋さんで、こんな短編集を見つけた。『税金兵衛』 商征 著
http://www.intel.co.jp/jp/tomorrow/#/book/read?isbn=5794838789213&page=15 (←クリック )
「きっと、あの子だ」
著者名を見て、しずくは一瞬、どきっとした。急いで本を手に取ってみる。短編集の中の、ひとつ、『税金兵衛』を読んだとき、さらに驚いた。やっぱり彼だ。 何度も引っ越しを繰り返してきたしずく達だったが、ほんの半年程暮したあの町のことも、わずかながら覚えている。しずく達一家が引っ越す前、割と近所だったけれど、殆ど話をすることも無かった。だけど、とても風変わりな名前だったから、商くんのことは覚えている。あの男の子のお父さんのことも。 しずくが憧れる「父の背中」そのものだったっけ。 しずくが実体験したことがない形の 「父の背中」を あの男の子と、彼の父親を通して知ることだって、できたのだった。
(元気なんだね。今はお父さんと一緒に暮らしているんだ…)
小説だから、どの部分が実話で、どの部分がフィクションかなんて、実際のところは分からない。でも、あの町で暮らした、あの男の子を思い浮かべるとき、何となく、「あの おじちゃん、もう80歳を超えたのね。でも、元気なんだ…」って、しずくは安心できた。そして、しずく自身が描く「父の背中」のイメージに、かなり戸惑ったのも事実だった。
私は恥ずかしい。 ほんの数日前だって、父親に対して感謝の気持ちを抱いてはいなかった…。でも、これだけは、言わせてほしい。 「虐待された子は、やがて親になり我が子に虐待する」 それは言い訳だと思う。 そうはならないケースだってあるんだから! 読書体験だって、ある程度、傷付いた人達が誤った道へ進まぬよう、ある程度は救ってくれると思う。 そう信じて今日も小説を書いている人達が大勢いるのだから…。 私に、しずくに出来ることは何だろう? 今夜はここに紹介すること。ただ、それだけ。 それだけでも何もしないよりは遥かにマシかもしれない。
すず
追伸: 深夜に ざっと書いたものを再び読み返し、手を加えたので少し長くなりました。作者の説明が多すぎてもいけないし、伝えたいメッセージを作者が語り過ぎるとNGですものね。 かといって、語らずに作者の独りよがりでも、また、NG。読者がついていけないから。難しいところです。…と素人の私。
ところで、『税金兵衛』はFrank Yoshida作品の中でも、特に私が好きな小説。この、短編なのに短編を思わせない、行間を読むような物語と、作中にも出てくる言葉、「父の背中」に惹かれます。 一読して、色々な「父の背中」が夢の中にまで浮かんでくる、という。 なんていうのかな、読者に物語の続きを見させてくれたり、さらに広げてくれるという点でも、好きですねぇ。 文字通り、Frank作品から目が離せない私なのですが、ネットで読ませて頂けて嬉しい限りです。(本ならもっといいですが…) チャンスがあれば、是非、お読みくださいね。小説の力は大きいなって、読者として思う今日この頃です。
本日、夕方からレッスンの…
すず、でした^^。 (作者のFrank Yoshidaさんには秘密で こっそり紹介してしまいました… いたずら好きの…すず)
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