日中は落ち着いている人が多い。
それでも夜になると夜行性のコアラのように目が爛々と輝きだし、自分が歩けないのだ、ということすら認知症で分からなくなり、平気で立ちあがろうとし、転倒しそうになることが多い。
車椅子から腰を浮きあがらせようとするしぐさをみると、歩行介助中の利用者さんをあらかじめ1メートル置きに用意していた椅子に座らせ、立ち上がりを防ぐために駆け寄る。
ただ、驚かせてはいけないので、「どうしましたか?」と正面から座って声かけすることが多い。
「荷物をまとめようと思って。その、引出しに着物が入ってるから」
たいてい、こういう返答がある。
これが普段の…名前は何としようか、お菊さん、仮名とする。
しかし、この夜は、本当に穏やかに過ごされていたのだ。
いつもなら夕食後、更衣を済ませた後は、ソファでうたた寝している利用者さんですら、この夜はニコニコとお隣に座った利用者さんの膝をポンポンと叩きながら微笑んでいた。
お菊さんも、その様子を見てにこやかに笑う。
21時を過ぎたので、「そろそろ服薬して寝ましょうか?」とお菊さんに声をかけると、「そうね」といい、手のひらに乗せられた就寝前の薬を3つ、ポン!とご自分で口の中に放り込んだ。
いつもなら、「あなたが飲みなさい。私は1つでいい」
或いは、「飲まん!」
と、仰られることも多い。
この点も違っていた。
そろそろ、就寝前のトイレ誘導をして(一人では歩けない利用者さん、全員。杖を使って自力で歩ける方は一名のみ)22時前には全員、床に付けるかな。今夜は、お菊さんが穏やかだから、途中、何度も歩行介助を中断して駆け寄ることもないから助かった。。。
トイレ誘導がお菊さんを覗き、一名のみになった時、内心、そう思った。
2つのトイレの内、1つに「おじいちゃま」に座って頂く。
その様子をじっと見ていた「お菊さん」も、「私も・・・」という。
「では、行きましょうか」
車椅子を押し、トイレに座って頂いた直後だった。
いつもなら杖を持って居室から出てくる利用者さんが、杖を使わず「すみませ~ん」と私を呼びながら、よろよろと歩いてくる。
「足がどうかなって。ちょっと診てもらえますか?」
いつもの私なら、日中でも 「お菊さん」から離れることはしない。
ましてや、夜は!
それが、この日は違った。
「すみませんけど、車椅子を押して下さる?」と自ら私に頼むくらい、お菊さん自身が身体のことを分かっている。立ちあがることはしないだろう。今、座ったばかりだし、ちょっとの間ならー
そう思ってしまい油断したこと。
「今夜は立たない」という思い込み。
一瞬の判断ミスが事故を招いた。
よろけそうになりながら、こちらへ向かってくる利用者さんに、「そこの椅子に座って下さい。今、そちらへ行きますから」と、トイレの中から声をかけた。
一方、お菊さんには、「すぐ戻りますから、座って待っていて下さいね」
お菊さんは自分のお腹をさすりながら、出にくいのだろう、排尿に集中している。長いときは、トイレに10分かかる時もある。ちょっとなら、大丈夫ね、私の意識は完全にお菊さんから もう一人の利用者さんへ向かっていた。
差し出された足を見ると、乾燥してカサカサになっている。
元々、足に塗る利用者さん専用の塗り薬があるので、急いでそれを塗る。
ぬっている時は、身体半分、お菊さんの方へ向け、両方が視界に入る態勢だった。
「あ~気持ちがいいです、そこです、そこが・・・」
そう言われて自分も嬉しくなる。
利用者さんの片足と、お菊さんの両方へ向かっていた「意識」が この瞬間、利用者さんのみへ集中した。
時間にしたら、ほんの10秒程だった筈。
「気持ちいいですか? 良かったぁ」
目が合い、お互いほほ笑んだ、その時ー
バタッ!
と背後で倒れる音がし、「あ痛ぁ~」とお菊さんが叫ぶ。
トイレの便座からの転倒。
あってはならない事態に、一気に心拍数が上がる。
横向きに倒れていたお菊さんをまずは、ゆっくりと起こすと、
「お尻が冷たい」と私の顔を見て言った。
両手が下敷きになっていた様子から、頭は打ってはいないようだ。
意識はしっかりしている。
トイレに座って頂きながら何処が痛いか尋ねると、
「顔が痛い」と言った。
「頭は?」
首を横に振る。
身体全身をチェックすると、左腕の肘の近くに血がにじんでいる。
パンツを上げ、車椅子に移動し、両手両足が動くかチェックする。
血圧計を持ちあげて、「これは、どうするんかねぇ」と言っている様子にとりあえず、骨折等は無さそうだ、と自分を落ち着かせる。
それでも打撲はあるだろう。これは今すぐには現れないだろうから。
顔が痛い、と言ったきり、その後、どこかが痛いという訴えはその晩は全く無かったが、「その後」はどうなるか分からない。
腕には傷パワーパットを貼り、顔は濡れタオルで冷やす。
お菊さんの転倒にもう一人、ショックを受けていたのが 「ごめんなさいね。私が声をかけたばっかりに」と心配そうに覗きこんだ利用者さんだった。
「いいえ。私が悪いんですから、心配しないで」
いつものように少し待って頂いたら良かったのに。
すぐにトイレから出て行って、お菊さんから離れたことが最大の間違いであり、判断ミスだった。
きっと、今夜は立たない。
30秒くらいなら大丈夫。
油断と思い込みが招いた事故。
いつものように、やっていれば防げたこと。
一分、一秒が利用者さんにとっては命取りになる。
お菊さんにテーブルについてもらい、(こうすることで、立ちあがりは防げる)お茶を飲んでもらっている間に、もう一人の「おじいちゃま」を車椅子で居室へお連れした。いつもなら歩行介助だが、お菊さんを一人に出来ない。かといって、一人の夜勤。迷ってじっとしているわけにはいかない。急がなきゃ。でも落ち着いて。
足に薬を塗った利用者さんも居室へ戻り、お菊さんを除き、全員が入床したあと、車椅子のお菊さんも電話口までお連れし、施設長に電話連絡。 施設長から即、ご家族に電話連絡するということだった。時刻は22時を回っていた。
お菊さんは、テーブル付近が気に入ってしまったようで、落ち着いたのち居室へお連れしても、
「私は寝らん。あっちへ行こうと思って」と言う。
「あっちって、さっきまで居た所ですか?」
「うん」
私が事故報告書を書いている隣で、お茶をゆるるりと飲みつつ、
「あなたも飲みなさい」
と勧めてくれたり、お盆の上に血圧計や湯飲みを乗せて、ままごと遊びのようなことを繰り返しながら、目が合うと、ほほ笑んでいた。
この夜は日中、38度の発熱があった他の利用者さんのことが、引き継ぎ時点では一番気がかりだったのだが、2時間置きの体温測定では、夜中に一度、37,8度になり、解熱剤服薬。その後は徐々に下がり始め、6時には36,5度まで下がり、クーリングも外し、ほっとした。
「まだ、2時か。時間が経たんのう」
と見回りのとき、呟かれ、一晩中起きていた他の利用者さん。
1時間程熟睡したあと、ずっと「テレビつけて」「もう、起きてもええ?」「夜中? みんな働きよるやろーが」と昼か夜か分からなくなって起きている他の男性利用者さんや・・・。
全員の話に耳を傾け、誰を優先し、誰に待って頂き、どういう処置や対応をするか。
真夜中の日中よりは鈍っているであろう判断力の中で、油断と思い込み程恐ろしい事態を招くものはないと、実感した夜だった。
翌朝、幸いにも二人の早番出勤者の内、ひとりは施設長だった。
家族は一人では認知症の人の面倒を見れないから、安心の為に施設にゆだねている、というケースが多い。
「何のために家族は認知症専門の施設にあずけているのか、ということを考えて」
「申し訳ありませんでした」
介護の入り口付近に立っている自分。
未熟さが事故を招いた、ということよりも、きっと この先、何年経験を積んだとしても その日の利用者さん一人ひとりの状況を観察した上でさえ、何かを瞬時に「判断」するときに、どれだけ「思い込み」が危険か、ということを痛感した。
「この経験を今後に生かして」
「はい」
9人の命を(夜は)一人であずかる重責と、1秒の大切さに震え上がった夜だった。
自宅介護をしている方。
施設入居を検討されている方。
仕事として介護に携わっている方。
自分の大きな失敗も、色々な人達にも参考になれば、と思い、記事アップを決断しましたが、ずっと一般公開するかどうかは未定です。
すず