カラマーゾフの兄弟全5巻に続き、久々にドストエフスキーの小説です。
ページを開いて読み始め、最初に大興奮した理由; 一人称で書かれている!
これは驚きです!
遥か昔、大学の図書館で借りて読んだ『罪と罰』が最初のドストエフスキーとの出会いでしたが、トルストイも含め、ロシア文学は兎に角、登場人物が多い! 名前が難解! ニックネームもある! この人と この人が同じ人間だと把握するまでが大変! という問題があります。
しかもですねぇ。主人公が最初の方で登場するとは限らない。誰が主人公なの⁉ ってことになる。(苦笑)
それが今回は、一人称なんですよ!
こんなに有難い話はないじゃないですか。分かりやすくて(苦笑)
…と、喜んだのも束の間。
「なんじゃこりゃ~ この男の思考回路はどうなっとるんじゃ~。分からん!」
特にこの場面; 決闘を申し込みたい将校がいるが、相手の方が体格も威勢もいい。その男とすれ違う際、いつも自分の方が道を譲る。相手は自分の存在がないかのように、ズンズンと歩いてくる。今度こそ、絶対に避けない、相手と肩がぶつかるだろうが、それに似合う服装であることが肝心だ」
と、主人公の男が決意するわけですね。
彼も40歳までは働いていたらしいのですが、色々あって「手記」を書いている時点では退職し、地下室に引きこもっている。
その地下室で、堂々巡りの終わらない彼なりの「決闘の仕方」を思案した経緯と結果を書き連ねている、というわけです。
決闘なので、それなりの服装でなくてはならない!と、手持ちのお金も細々となっているにも関わらず、服を新調。下男に給料は渡さず、自分を正当化するための下男に対する仕打ちがまた酷い!
もう、どうしようもない奴~と思ってしまう。
ただ、ドストエフスキーも、「この小説は難航している。早く脱出して楽になりたい」みたいなことを私信に書いているらしいから、「ロシアに増殖中の、どうしようもない男たち」を描き出したかったのでしょうね。
そうそう!
決闘…と主人公の男はいいますが、ただ単に、道ですれ違う際、どちらが道を譲るか?
勇気を出して、自ら避けない、と思うものの、その時が来た!
避けた! 再び来た! 避けた! を何度も繰り返し…
実際に肩がぶつかって、吹き飛ばされ、その後、将校は違う土地へ配属になったかで、姿を見なくなり、この件は終わり。
臨場感溢れるドストエフスキー先生の描写には脱帽です。是非、実際にお読み下さいませ。
ちなみに私は人とぶつかりたくないため、相手が誰でも自然と避けます。これが難しいのが、京都駅や大阪ですね。甥っ子にも言われました。
「おねーちゃん! ここはね、〇〇(北九州市の〇〇区)じゃないから、いつも自分から よけていたら、😵😵🤪😨フラフラ~になるよ!」
信号機が赤で、渡らずにじーーっと待っている人を見かけると、
「ああ、九州から来た観光客だな」
と、すぐ分かる! と、甥っ子の叔父(関西生まれ、福岡育ち、再び関西、その後転勤族)も、それこそ妹の結婚式後の食事会で言っていたっけなー
話を戻し… 相手の将校は、それこそ言葉は悪いですが、屁とも思っていないようなことを この主人公は、うだうだと地下室にこもって今も考えている… 健康的じゃありません…
一部と二部に分かれた構成で、一部には、ダメ主人公を登場させ、読者に逆説的に悟らせる「哲学的仕上がり」となっている、とは思いますが、読んでいて気持ちが良いとはいいがたく、そして気付かされるんです。
この男程ではないにしろ、人間は他者との関わりの中で社会性を持って生きていく訳で、大なり小なり、ここに登場する人物たちのいずれかの、ある部分が内面に存在しているのではないかと。 ただ、普段意識せずに過ごしているか、向き合うことを恐れているのかも…しれないな…と。 太宰治の『人間失格』にしろ、ドストエフスキーにしろ、こうした「あぶり出し作業」は作家として苦しくとも、避けて通れなかったのだろうなぁ、と小説を書いていた作家の心情を想うと、感謝したいです。だから文豪なんだな、と。
第二部からは、いわゆる小説のスタイルで、一部よりかなり読みやすいと感じる筈です。女性も登場します。恋心…なのですが、ここでも主人公は…
おっと、これ以上は言わないでおきましょう。読んでのお楽しみに…
追記~
そしてもう一つ、興味深い描写がされているのが友人関係。主人公は勇気を出して、呼ばれもしない、歓迎もされないのに食事会グループに自ら申し出て、出かけて行くのですが…これは周囲の人間たちも…問題あり‼
先週、「自分の子供にはクラスに友達がいないようで心配しています」という親の相談が掲載されていましたが、それに対する回答は、次のようなものでした。
関西の父親が息子に向かって、
「お前、友達、おるか?」
「う…うん…いるよ」
「お前は 変わったやつやな~。お父さんはな、大学生になるまで友達一人もおらんかったぞ~」
なかなか良い回答です👍
毎日新聞日曜版に小説というか、エッセイというか…連載中の作家さんだったっけ? 誰かが書いていたなぁ。
「友達100人できるかな」という童謡は罪。たまたまクラスが同じというだけで友達だと錯覚してしまうが、クラスが分かれればなんてことはない。実際、生涯に一人か二人、親友と呼べる人がいれば…ってところでしょうか。
飲み友達は、皆親友!っぽいロシアに生まれ育ちながら、この辺の友人の定義も含めてドストエフスキー先生、やはり天才!