大将が名乗り合ってから戦を始めることがルールとされた平家の時代… それを崩してしまったのが、鞍馬で育ち、ゲリラ戦法を自然と身に着けたであろう源義経だと思う。船頭さんたちを真っ先に殺したり…ね。
”日本史”であるから、和人のみならず、アイヌ民族の歴史についても井沢さんが語られています。 (琉球については他の巻で、すでに触れられていましたね) 真っ先に思ったことは、アイヌ民族は、和人たちが縄文時代から稲作主流の弥生時代(今は、縄文時代も粟などをすでに作っていたのではないかと分かって来たんでしたっけ?)~ 農耕民族となっていった中、江戸時代になっても縄文時代そのまま、狩猟中心の生活をしており、和人よりも もっと 「人を信頼する文化」だったようです。アイヌの辞書には 「騙し討ち」など卑怯な言葉はなく、そういう「哲学」も存在しない。 そこへ松前藩のお家芸ともいえる 「騙し討ち」で宴会の場へ呼び、コシャマインやシャクシャインを消した…つまり「毒殺」で。(1457年 コシャマインの戦い、 1669年 シャクシャインの戦い)
アイヌにとっては交易こそが命綱であったが、松平定信が 「ダメなものはダメ!」と異国との交易を認めず、「鎖国状態」こそが幕府が進むべき道~と(朱子学により、異人は野蛮という決めつけ⁉)名君どころか、頭がコチコチに凝り固まっており、先見の明が無さすぎな「悪人」の部類に入る男だったことが 幕府滅亡を早め、アイヌも不幸にした、と思う。
このことは私も全く知らず驚いたのだが、米国の黒船より先に、ロシアが 「友好的な交易を求めて」やってきていたのだ!
ロシア使節、アダム・ラクスマン中尉がエカテリーナⅡ世(当時のロシア皇帝・女性の名)で蝦夷地(北海道)へ来航。表向きは、「漂流民の返還」、つまりロシア船に救助された日本人が3名いるから、彼らを本国に帰しにやってきた。オランダにだけに交易を許していた幕府に対し、交易、或いは「開国」を求めるつもりで。
当時のロシアは、あのトルコ帝国を圧倒し、清国との国境も確定した。そこで毛皮など豊富な物産が獲得できるシベリア開発にも手がつけられるようになった。 問題は厳冬の地で食料の補給が困難なこと。
ところが、シベリアの南に日本という、食料豊富な国があることに気付く。 ならば、この国と交易すればよいではないか!グッドアイデア👍 ということ。(266~268pまとめ)
ここで司馬遼太郎氏の著書『ロシアについて 北方の原形』(文春文庫)から引用を~
「シベリアにおける食料問題は解決する、とロシアの政治家たちは喜んだ。シベリアに接している日本から食料を買おうではないか。幸い日本は農業国だという。ロシアの政治家にとっては、日本は、パンとキャベツの倉庫にみえたにちがいない。」
ここまで読んで分かったことは、『ペリー来航❣ 黒船が来た!』は寝耳に水ではなかったこと。ペリーの何十年も前から、日本は開国せざるを得なくなるだろう、と予知できたこと。イギリスはインドを植民地化、中国をアヘンで無力化、ロシア来航の4年後の1804年には、イギリスとの間に『フェートン号事件』勃発する!
『長崎に侵入したイギリス軍艦による狼藉事件。ナポレオン戦争によりフランスに併合されていたオランダとの交戦国の関係にあったイギリス軍艦フェートン号がオランダの国旗を掲げて長崎に入港。これをオランダ船と誤認して、長崎奉行役人、通詞らとともに出向いたオランダ商館員2名を捕え、湾内を探索したうえ、薪水・食料を強要し、乱暴をはたらいた。(「スーパー・ニッポニカ電子版」小学館)』
井沢さん曰く、イギリス海軍の汚点ともいうべき非道、卑怯きわなりない事件である! イギリスの国旗を掲げるべきなのに、オランダの国旗を掲げ、民間人を人質にとり、日本を脅し、物資を奪い取ったのだから。ちなみに こちらはペリーではなく、ペリューだそう。似てるわ、名前!
イギリス人もオランダ人も、この黒歴史を知らない人が多いらしい。日本人の私も、今の今まで全く知らなかったが… 歴史は好きな科目だったが、これについて学んだ記憶が全くない。ペリーの黒船より、こちらの方がよほどショッキングな事件だったのではないか? 鎖国を強いてきた日本には対抗できる軍艦も大砲も進化を遂げることなく旧式のまま時間が止まってしまっていた。 秀吉の「唐入り」が失敗に終わり、江戸幕府の庶民も武士も 「戦(いくさ)はこりごり。平和がいい。軍艦も大砲もいらない。平和憲法があればいい…」って戦後の日本に似た状態‥‥かも
海に囲まれた日本は、他国に攻撃されることもなく、(モンゴルのみ)海のお陰で平和を維持出来た江戸時代。ところが幕末になると、鉄の塊が海に浮き、大砲を積んで四方八方どこからでも、つまりは上陸せずとも日本を攻撃できるようになったのだから…
そうそう! 交易を求めてやってきたロシア。幕府はどのように対応したかというと、松平定信は、長崎へ寄港せよ、と言った。いわゆる時間稼ぎだが、ロシアはその時は長崎へ立ち寄らず、11年後に巨大戦艦ナデジュタ号を長崎へ送った。幕府の長崎奉行所では小舟をこぎ寄せ、入港の目的を問いただした。 これに対しレザノフはロシア皇帝の国書を差し出し、上陸して交渉したいと申し出た。
ところが、長崎は上陸の許可すら与えず、国書は写しで良いからよこせ。武器・弾薬はすべて提出せよ、と高飛車な要求を突き付けた。戦艦に武装解除を要求とは、ロシアにとっては極めて屈辱的なことだが、これをレザノフは受け入れた。 日本と友好関係を築くのが目的で、戦争をすることが目的ではなかったから。
それなのに…「おみやげ」として連れて来た漂流民は受け取りながら、ろくに礼も言わず、退去を命じた。上陸も認めなかった。 こりゃ、怒るわ~~~~❣ 当然ながら、レザノフは怒り狂った (275ページまで、まとめ)…でしょうね。 当時、松平定信はこの世の人ではなく、彼もダメだったが、老中の中には ろくな人材がいなかったらしい。😨
もしも井沢さんが将軍だったら… 蝦夷地はまだ和国の地とは呼べない。なので、それを有効活用し、表向きは 「鎖国」としつつも、アイヌ民族との交易という形を取り、交易することも可能であっただろうと。ちょうど、薩摩が琉球の背後にいて、明と交易をしていたように…
米国もロシアと同じく貿易交渉目的でやってきた…が不幸なことに、フェートン号事件(イギリス)が先にあり…
そのイギリスから独立したアメリカも貿易によって国を豊かにしようと考えていた…
朱子学は日本にとって「毒」でしかなかった、という点も重要ですが、時間がありませんので、この辺で~ レッスンです(^_-)-☆