「結婚しよう!」
いきなりだった。私と彼は大学院で紫式部を研究する仲間だ。どちらともなく、小倉百人一首の1つである彼女の和歌が好きだと話したときだった。それまで文献を漁っていた彼が顔を上げ、食い入るように私を見つめた。次にどこか遠くへ一瞬、行ってしまったかのような表情を見せた。あぁ、きっと聞き間違いね、と思ったほどだ。私は何事も無かったかのように、原稿へ目を落とした。
「僕は雲隠れはしない。」
再び彼が口を開いた。え…? 私は再び顔を上げた。
「僕は何処へも行かない。ずっと君の傍にいたい、いや、君の傍にいると今、決めたよ!」
そうすることが、当然であるかのように彼は言った。
「お互いを遠く離れた場所で想う。それよりも、僕は君と一緒に月を見上げたい。その方が自然だよ。だから...」
「だから?」
私は彼の顔を見た。彼は真っ直ぐに私を見つめている。ジョンが目を合わせず、はにかんだ様子で、「月を見たら、3回中1回、いや、10回に一度でいいや、僕を思い出して!」と言った日が脳裏に蘇る。あの日のジョンの姿は、優しくも儚く、今にも消えてしまいそうだった。あの頃は、もうすぐ自分が船を降りるからだ、そうなればもう、簡単には会えなくなるからだと思っていた。まさか、永遠に会えなくなるなど知る由もなく...。
「だから、結婚しよう。僕らは一緒にいるべきだよ」
ただの院生から、友人になりたい、でも、付き合って欲しいでもなく、いきなり結婚しようだなんて、彼は何をそんなに生き急いでいるのだろうか。ジョン… ジョンならどんなプロポーズをしてくれただろうか。もし、あの時、火事が起きなければ。もしも、自分が寝入ってしまわず、燭台が風で倒れてしまわなければ…嗚呼、もしも…
「ジュリー、僕の話を聴いてる?」
彼が私の思考を遮った。言わなければ。正直に。自分の心には、ジョンがいるのだと。
「ジョンが… 私はジョンを愛している。たとえ会えなくても」
一瞬の間があった。私が他の人の名前を口にしたことが、意外だったのだろうか、それとも…。
「ジョンって誰だい? 君、ボーイフレンドはいないと言っていなかったっけな? もしや、婚約済なのか?」
私はかぶりを振った。いいえ、違う。彼はいない。この世にはいない。いたとしても異次元だろう。きっと天使として…だなんて言えない。
「彼は…ジョンは…亡くなったわ。私を助けて、その直後に」
そういうのがやっとだった。出来る事なら、この場から逃げ出したかった。ジョンの元へ…逝けるはずもない。その時、何かが頬に触れた。布製のハンカチだった。
「自分で… 涙を拭いて… それ、ハンカチ… ちゃんと洗濯はしてあるよ」
彼は横を向いたまま言った。堂々とした彼も、私に泣かれて戸惑った様子だった。考えてみれば失礼な話だ。私ったら、プロポーズされて、他の男性の名前を言った挙句に泣き出したりして。だけど、彼だっていきなりすぎる。結婚するのが当然みたいに。私が断ると予想しなかったの? 私は泣いた。一生分、泣いたといってもいいくらいだ。思えばこんなに泣いたのは…そう、あの日以来だろう。ジョンを失った、あの日。ばあやが手に握っていた筈の太陽のペンダントは、その後、行方知れずとなった。ジョンの亡骸も翌朝には甲板から消えていた。誰かがペンダントと一緒に海へ埋葬したのだろうと噂がたった。ジョンの魂は天使になったのだから、きっと私を天から見守っていてくれる。私と ばあやは、そう信じた。あの時、一緒に手を取り合って泣いたばあやも、今は亡き人となった。あの日から、十年… すでにそれだけの月日が流れたのだ。
キャンパスに夕陽が落ちてきた。手元が赤く染まっている。満足いくまで泣いた私は、ふと、彼の方を見た。何事もなかったかのように、文献の整理をしていた。いきなりのプロポーズには驚いたが、彼は黙って自分が泣き止むのを待っていたのだろうか。せっかちな人だな、という印象が少しだけ緩和された。私の視線を感じたのか、彼が顔をあげ、こちらを見た。
「大丈夫?」
「えぇ。ごめんなさい、いきなり泣き出したりして」
「いや、僕こそゴメン。驚かせたみたいで。だけど、僕の決心は変わらないよ。君は僕と一緒になる。その…ジョンって人の為にも。」
「ジョンのため?」
私は面食らった。ジョンのため、結婚はおろか、誰とも付き合う気すらなかったのだから。実際、この年齢…24歳になるまで、ボーイフレンド一人、作ったことがない。
「そう、ジョンのため。」
彼はもう一度言った。
「彼は…残念だけど、亡くなったのだよね。だったら尚更、君は今を生きるべきだよ。彼だって、きっと、君の未来がただ、過去に囚われるだけじゃなく…」
私は彼を遮って叫んだ。
「違う!囚われているわけじゃない!私は彼を忘れない!彼は家族も失い、親戚からも疎んじられて…自分しかいないって言っていたの。私が忘れてしまったら…一体誰が… 誰が彼が存在したことを覚えているというの!」
私は再び涙目になった。嫌だ、そんなのは嫌! 忘れられるものですか。忘れられないのよ。会えなくてもジョンは自分の中で生きているのだから… 何処まで彼に実際に話し、どこからが自分の独り言なのかすら分からなくなってしまった。一体、どのくらい、そうしていたのだろう。辺りはすっかり暗くなり、窓の外から顔を出したのは、満月だった。あぁ、満月…ジョンと約束を交わした満月だわ。満月を見たら、お互いを想う…と。
「綺麗な月だ」
ふいに、彼が言った。ほんとうだ。おぼろげな満月がジョンと自分を繋げている。会えなくても一緒にいてくれる気がする。
「なぁ、ジュリー。ゆっくりでいい。時間をかけていいから考えてみて。君のジョンの話を君の将来の子供へ引き継ぎたいとは思わないか?そうすることで、ジョンは僕らがこの世を去った後も、生き続けるとは思えないかな…」
意外な話の展開に面食らった。だってそうだろう? 君しかジョンを知らない、ジョンの記憶がないというのであれば、君はそれを伝えるべきだろう。作家になるという彼との約束だってある。彼のことを本にしたらどうだろう? それを子供たちに読み聞かせしては? 僕は君の夢をサポートするよ。ジョンには出来なかった形で。
彼が… 学友の純一が、自分の夫になる、それも、いいかもしれない… 空から月が私たち二人を見ている。ジョン… あなたなら、何というかしら? 私は満月に問いかける。今までもずっと、こうしてきた。満月に問いかけてはジョン、あなたと会話してきたわよね。
「ジュリー、受け入れなよ。君は生涯、孤独でいるべきじゃない。僕は君と新しい家族になりたい。ジョンだってきっと、それを望んでいる筈だ…と思う…うん…」
純一はそういうと、目を逸らし、少し首を傾げた。そのしぐさが何処となくジョンに似ていて驚いた。つい先ほどまで積極的だった純一が、それまでとは違って見えたのだ。まるで、はにかみ屋のジョンが純一に乗り移ったかのように。
その時、満月が笑っているかのように思えた。ジョンの懐かしい、あの、はにかんだ笑顔と満月が重なる。この夜、私は確かにジョンの声を聴いた。「君の子供に会ってみたい」と…。
秋の風が優しく頬を撫でる夜、私は純一のプロポーズを受け入れた。翌年の7月7日良く晴れた七夕の日の夜、月光が部屋へ差し込む中、純が生まれた。まるで小さな天使が地上へ舞い降りたかのようだね、と二人で笑った。小さな産声を聴いた瞬間、まるでジョンの声が脳裏に響いたように感じられた。栗色の目をした元気な男の子だった。
純が生まれた七夕の夜は、澄んだ星空が広がり、満月の明るい輝きが空の美しさを一層際立たせていた。私は空を見上げながら思ったものだ。純の誕生をジョンも一緒に祝ってくれているのだと。自分とジョン、そして純一との新たな絆が天の川を越えて天からやってきたかのような純を通じて繋がっていると感じた。星々の間を渡る織姫と彦星もきっと祝福してくれている。星々の輝きがジョンの記憶を未来へと運ぶ流れ星のように感じられた。
腕の中で、すやすやと眠る純を見つめながら、私は静かに心の中で誓う。ジョンの想いを、純と純一との新しい未来へ繋げることを。
純、あなたはこれからどんな道を歩み、どんな夢を追いかけるのだろうか。その未来に、自分とジョン、そして純一の想いが溶け込んでいきますように。これからの人生で出会う人々への愛情を抱きながら、人生を彩る瞬間を大切にして欲しい。思い出を決して過ぎ去った日々と捉えず大事にして、苦手なことより好きなことをやり抜いて…だけど決して急がず、大地を踏みしめながら生きていって欲しい。ママは欲張りかなぁ。何より元気で笑顔でいて欲しい…
私はふと、胸ポケットにしまっていたジョンの懐中時計を満月に照らして見た。この子に…純に手渡す日はいつだろうか。
純の首が座る頃、私は遂に執筆を始めた。タイトルは、【天使の賛歌】に決めた。それは、自分であるジュリーがジョンとの約束を守るために紡いだ言葉であり、彼の優しさと勇気への感謝を込めた祈りだった。ジョンは、月を見るたびに自分を思い出すと言っていた。もしかしたら、それはジョンが孤独の中で見つけた唯一の慰めだったのかもしれない。そして、自分にとっても満月は、彼の存在を象徴する大切なものとなった。ジョン、何年かかっても、きっと、描き上げるから。約束するわ。
ミルクを飲み終えて、ご満悦な純を横目に、私は万年筆を手にし、最初の一行を書く。少しばかり手が震えたが、まぁ、ギリギリ読める字かな。濃いブルーブラックのインクが白い紙の上でゆっくりと滲む。筆跡はわずかに震えながらも、確かな思いを刻んでいた。こうして、この子に捧げる物語が幕を開けた。