今週の「週刊新潮」から。
作家である渡辺淳一の連載コラム「あとの祭り」。
こう書くと、察しのいい方はすぐに思い出すであろう、例のコラム。
「中国に対しては、ず~っと謝り続ければいい」というやつだ。
このおじさん、作家としての力量は私にはよくわからないが、政治や国際問題について触れると、途端にトンデモになってしまう。
今回のタイトルは「年齢制限を撤廃せよ」
書いてある内容は、全体的には特におかしいとは思わない。
「将棋のプロになるのに、26才までに4段にならなければならない」とかいうことに対して「おかしい」と言っているのは、納得できるものがある。
ただ、こうした年齢制限のあるものが多いことについて、彼は「日本人は、年齢にこだわりすぎる」と言う。
そういう傾向はあるかも知れない。
でも「普段の会話でも、女性にさえ平気で年齢をきく」などと書いているが、そうだろうか。
特に、年配の女性に対して「平気で」年齢を聞く人はあまり見たことがない。
「年齢にこだわりすぎる」ということを強調しようとして、こういういいかげんな例を出すことはないと思うのだが。
さらに、このおっさんは、「この異様なまでの年齢へのこだわりを見ると、相手の内容を見ようとしない、日本人の形式主義がよく表れている」と書いているが、そうだろうか。
あまり自信はないけれど、日本人が年齢にこだわるのは、儒教に関係があるのではないか。
つまり「目上の人を大切にする」という思想が根底にあると思う。
私自身、相手の年齢が気になるのは「この人は、私よりも年上なんだろうか、年下なんだろうか」という気持ちがあるからだ。
ただし、このおっさんが本当に言いたかったことは、このことではないようだ。
「作家の場合、いいものを書きさえすれば、いつでもプロになれる」と彼は言う。
つまり、自慢したいわけだ。
しかし、正確に言うと「いいものを一度書きさえすれば、一生プロとして暮らせる」ではないのだろうか。
しかも、小説が認められてプロになったのに、いつの間にか政治とか国際問題とかいろんな分野に口を出せるようにもなる。
これは、小説家に限らない。
一つの分野で成功すると、なぜか別の分野でも専門家みたいな口の聞き方をする者が出てくる。
そう言えば、映画監督や作詞家などにも、同じようなヤツがいる。
そんなヤツらに、コメントを求める方もおかしいのだが。
作家である渡辺淳一の連載コラム「あとの祭り」。
こう書くと、察しのいい方はすぐに思い出すであろう、例のコラム。
「中国に対しては、ず~っと謝り続ければいい」というやつだ。
このおじさん、作家としての力量は私にはよくわからないが、政治や国際問題について触れると、途端にトンデモになってしまう。
今回のタイトルは「年齢制限を撤廃せよ」
書いてある内容は、全体的には特におかしいとは思わない。
「将棋のプロになるのに、26才までに4段にならなければならない」とかいうことに対して「おかしい」と言っているのは、納得できるものがある。
ただ、こうした年齢制限のあるものが多いことについて、彼は「日本人は、年齢にこだわりすぎる」と言う。
そういう傾向はあるかも知れない。
でも「普段の会話でも、女性にさえ平気で年齢をきく」などと書いているが、そうだろうか。
特に、年配の女性に対して「平気で」年齢を聞く人はあまり見たことがない。
「年齢にこだわりすぎる」ということを強調しようとして、こういういいかげんな例を出すことはないと思うのだが。
さらに、このおっさんは、「この異様なまでの年齢へのこだわりを見ると、相手の内容を見ようとしない、日本人の形式主義がよく表れている」と書いているが、そうだろうか。
あまり自信はないけれど、日本人が年齢にこだわるのは、儒教に関係があるのではないか。
つまり「目上の人を大切にする」という思想が根底にあると思う。
私自身、相手の年齢が気になるのは「この人は、私よりも年上なんだろうか、年下なんだろうか」という気持ちがあるからだ。
ただし、このおっさんが本当に言いたかったことは、このことではないようだ。
「作家の場合、いいものを書きさえすれば、いつでもプロになれる」と彼は言う。
つまり、自慢したいわけだ。
しかし、正確に言うと「いいものを一度書きさえすれば、一生プロとして暮らせる」ではないのだろうか。
しかも、小説が認められてプロになったのに、いつの間にか政治とか国際問題とかいろんな分野に口を出せるようにもなる。
これは、小説家に限らない。
一つの分野で成功すると、なぜか別の分野でも専門家みたいな口の聞き方をする者が出てくる。
そう言えば、映画監督や作詞家などにも、同じようなヤツがいる。
そんなヤツらに、コメントを求める方もおかしいのだが。
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