今週の「週刊文春」から。
「新聞不信」というコラムがあるのだが、ここど筆者は朝日・毎日の社説に対して「病身の老姉妹の愚痴を聞くような気がした」と手厳しい。
何かと言えば、小泉首相の特別国会での所信表明演説について、朝日と毎日が「具体性がない」と批判したことに対して批判しているのだ。
なぜかと言うと「この先の政治の大方針を語るのであるから、その演説は、日本中で最も具体性のない演説であって当たり前ではないか」というのが理由。
「日本中で最も具体性がない」かどうかは別にして、確かに「所信表明」なるものが、そこまで具体的であるべきかどうかと言えば、逆に具体的である方が違和感があるに違いない。
この「新聞不信」というコラムは、時々こういう厳しいコメントを載せるのだが、今回のはいつもより言葉がキツい。
「たまには書く前に少し考えてはどうか」とか「お前さんは満足するのか」とか「「毎年同じ愚痴をこぼすのなら、たまには実例を引いて具体的に教えてくれ」とか、かなりケンカ腰だ。
しかし、特に朝日の社説なんて、もともと具体的なものなどほとんどなく、抽象的に批判しているものばかりだ。
それはなぜかと言えば、具体的に批判すれば、すぐさま具体的に反論されるのが目に見えているからだ。
靖国問題といい、拉致問題といい、特定アジアに対する発言といい、納得できるものなど何ひとつない。
それほどまでに、朝日などの言説は破綻しているわけだ。
NHKに対する捏造報道に対しても、いまだに謝罪や訂正をしないのもよくわかる。
なぜなら、そんなことをしたら、今後あちこちで謝罪や訂正をしなくてはならなくなるからだ。
特定アジアに対しては、日本に対する「謝罪と賠償請求」を煽っているくせに、自分たちはゼッタイに謝罪しない。
こういうスタンスの新聞に、まともな記事が書けるはずがない。
さらに、天声人語の高橋クンのように、書いてある内容以前に、まともな文章が書けないような物書きがいるようでは、もはや末期的としか言いようがない。
だいたい、天声人語って朝日の看板コラムなんだよね。
つまり「うちの代表的なコラムニストは高橋クンです」って宣言しているわけだから、もう呆れる以外にどうしようもないではないか。
「新聞不信」というコラムがあるのだが、ここど筆者は朝日・毎日の社説に対して「病身の老姉妹の愚痴を聞くような気がした」と手厳しい。
何かと言えば、小泉首相の特別国会での所信表明演説について、朝日と毎日が「具体性がない」と批判したことに対して批判しているのだ。
なぜかと言うと「この先の政治の大方針を語るのであるから、その演説は、日本中で最も具体性のない演説であって当たり前ではないか」というのが理由。
「日本中で最も具体性がない」かどうかは別にして、確かに「所信表明」なるものが、そこまで具体的であるべきかどうかと言えば、逆に具体的である方が違和感があるに違いない。
この「新聞不信」というコラムは、時々こういう厳しいコメントを載せるのだが、今回のはいつもより言葉がキツい。
「たまには書く前に少し考えてはどうか」とか「お前さんは満足するのか」とか「「毎年同じ愚痴をこぼすのなら、たまには実例を引いて具体的に教えてくれ」とか、かなりケンカ腰だ。
しかし、特に朝日の社説なんて、もともと具体的なものなどほとんどなく、抽象的に批判しているものばかりだ。
それはなぜかと言えば、具体的に批判すれば、すぐさま具体的に反論されるのが目に見えているからだ。
靖国問題といい、拉致問題といい、特定アジアに対する発言といい、納得できるものなど何ひとつない。
それほどまでに、朝日などの言説は破綻しているわけだ。
NHKに対する捏造報道に対しても、いまだに謝罪や訂正をしないのもよくわかる。
なぜなら、そんなことをしたら、今後あちこちで謝罪や訂正をしなくてはならなくなるからだ。
特定アジアに対しては、日本に対する「謝罪と賠償請求」を煽っているくせに、自分たちはゼッタイに謝罪しない。
こういうスタンスの新聞に、まともな記事が書けるはずがない。
さらに、天声人語の高橋クンのように、書いてある内容以前に、まともな文章が書けないような物書きがいるようでは、もはや末期的としか言いようがない。
だいたい、天声人語って朝日の看板コラムなんだよね。
つまり「うちの代表的なコラムニストは高橋クンです」って宣言しているわけだから、もう呆れる以外にどうしようもないではないか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます