大津市の「いじめ」という名の「暴力事件」に触発されたのかどうかはわからないが、朝日新聞がわけのわからない特集を組んでいる。
タイトルは、「いじめと君」ということで、「いじめられている君へ」「いじめている君へ」「いじめを見ている君へ」という内容で、日替わりで評論家やら芸能人・スポーツ選手などにコラムを書かせている。
これがまた、「だからどうすりゃいいの?」というシロモノばかりで、何が言いたいのかよくわからないものが多い。
まず「いじめられている君へ」編
7月13日は、元ボクサーの内藤大助
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207130504.html
『少しでも嫌なことがあれば自分だけで抱え込むな。親でも先生でも相談したらいい』
そして、7月15日は、「生協の白石さん」の著書・白石昌則
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207170686.html
『その悩みを誰かに打ち明けてみては。いじめられることは恥ずかしいことじゃありませんよ。ささいなきっかけで誰にでも起きうるんです』
二人とも同じようなことを言っているが、大津の事件では、自殺した子は先生にも親にも相談している。
親は学校に直訴しに行ったが、先生たちは皆無視した。
それどころか、暴力を助長するような言動までしていた。
つまり、相談しても何の効果もなかったわけだ。
それどころか、一説には「親が学校に行った翌日に、さらにヒドい暴力を振るわれた」という話もある。
そういう事実を知っていて、こんなことを言うのだろうか?
だいたい「いじめられることは恥ずかしいことじゃない」って、どういう意味?
「恥ずかしい」とか「恥ずかしくない」じゃなくて、もっと深刻な問題だ、という認識がまったくないのだろう。
7月14日は、アホの森永卓郎
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207160413.html
『本人が反撃し、もがくしかないと思います。返り討ちに遭うかもしれない。でも、抵抗しないままだと、いじめはどんどんエスカレートします。相手と目が合ったときに「ふんっ」って、やるくらいでもいいんですよ』
本人も昔イジメに遭っていたらしいが、当時のイジメと今のはまったく違う。
今のは、完全な暴力であり、犯罪行為だ。
だから、抵抗しても何の効果もないし、だいたい一人で解決できなかったからこそ自殺しちゃったんじゃないのか?
しかも、森永本人が言うところの「いじめがなくなった理由」というのが、まったくよくわからない。
ホントにイジメに遭っていたのか?
それとも、ホントにイジメはなくなったのか?
今でも、皆から「キモい」とかいろいろ言われているけど、本人は何とも思っていないみたいだし、たぶん皆呆れているだけなんじゃなかろうか。
7月16日は、モデルの押切もえ
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207180580.htm
『人生の主役は自分。主人公が脇役からつらい目に遭(あ)わされる映画、ありますよね。でも、最後には必ず活躍する。いじめる子たちはしょせん脇役です。学校の外にはもっと広い世界があります。絶対におもしろい人生にしましょう』
この女の言っていることがさっぱりわからない。
主役とか脇役とかは、この際全然関係ないだろう。
しかも、例として出したのがハッピーエンドになるように作ってある映画の話って・・・
それに「おもしろい人生にしましよう」って言ったところで、本人にとっては「今」が大事。
そこを乗り切ることができずに、明るい将来が待っているなんて思えるはずがないだろうに。
7月18日は、社会学者の土井隆義
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207220207.html
『竜巻もいじめも、被害を避ける合理的な方法は、まず逃げることです。竜巻では進行方向から横に逃げるように、いじめに遭ったら、相手と同じ土俵から下りてしまうことです』
なぜに自然災害とイジメとを同列に扱うのだろう。
「逃げればいい」と簡単に言うけれど、それか難しいから困っているんじゃないのか?
これまた、何も言っていないのに等しい。
次は「いじめている君へ」編
7月21日は、タレントの細山貴嶺
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207210424.html
『僕は、君がなぜ人をいじめるのかを知りたい。本当は君も何かに苦しんでいるんじゃないだろうか。そうなら、いじめという形で発散せず、誰かに胸の内を話してみてほしい。僕は、君にも救われてほしいんです』
これは、被害者家族の前で「犯罪者にも事情がある」と言い放った民主党・平岡秀夫元法相と同じ発想だ。
http://www.youtube.com/watch?v=LswADT-mSs0
つまり「もう死んでしまった被害者なんかどうでもいい。加害者の人権こそ守られるべき」という相当捻じ曲がった考え方だろう。
はっきり言うが、今回の大津市の加害者のくそガキを擁護する部分って、まったくないだろう。
うち一人は、転校先の中学校でも暴力事件に加担していたとか言うし・・・
こういうヤツを救う意味がはたしてあるのだろうか。
最後は「いじめを見ている君へ」
7月15日は、ジャーナリストの江川紹子
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207150302.html
全体的に何を言っているのかよくわからない。
特に、『イスラエルという国で、兵役を拒み、パレスチナ人への迫害をやめようと声をあげた若い女性がいました。周囲から無視され、批判もされたけれど、私にこう言いました。「自分自身に正直であることが一番ハッピーなんだ」って』という一文は、イジメとは何の関係もないだろう。
「自分自身に正直」だと、イジメはなくなってハッピーになれるのか?
ピントはずれもいいところだ。
このように、いったい何のための特集なんだかさっぱりわからない。
一人で解決できれば、これほど大きな事件になるわけがない。
「ツカマロ」を初めとしたガキどもだけじゃなくて、学校の先生までが加担するから、自殺するしかなかったんじゃないのか?
結局のところ、イジメ(という名の暴力)をなくすためとか言いながら、「それは加害者やその親、あるいは学校の責任である」という肝心なことに触れようとしないから、こんなわけのわらない駄文の羅列になってしまうんだと思う。
これがつまり、朝日新聞の総意というわけだ。
でもこれって、いつまで続けるつもりなんだろう。
タイトルは、「いじめと君」ということで、「いじめられている君へ」「いじめている君へ」「いじめを見ている君へ」という内容で、日替わりで評論家やら芸能人・スポーツ選手などにコラムを書かせている。
これがまた、「だからどうすりゃいいの?」というシロモノばかりで、何が言いたいのかよくわからないものが多い。
まず「いじめられている君へ」編
7月13日は、元ボクサーの内藤大助
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207130504.html
『少しでも嫌なことがあれば自分だけで抱え込むな。親でも先生でも相談したらいい』
そして、7月15日は、「生協の白石さん」の著書・白石昌則
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207170686.html
『その悩みを誰かに打ち明けてみては。いじめられることは恥ずかしいことじゃありませんよ。ささいなきっかけで誰にでも起きうるんです』
二人とも同じようなことを言っているが、大津の事件では、自殺した子は先生にも親にも相談している。
親は学校に直訴しに行ったが、先生たちは皆無視した。
それどころか、暴力を助長するような言動までしていた。
つまり、相談しても何の効果もなかったわけだ。
それどころか、一説には「親が学校に行った翌日に、さらにヒドい暴力を振るわれた」という話もある。
そういう事実を知っていて、こんなことを言うのだろうか?
だいたい「いじめられることは恥ずかしいことじゃない」って、どういう意味?
「恥ずかしい」とか「恥ずかしくない」じゃなくて、もっと深刻な問題だ、という認識がまったくないのだろう。
7月14日は、アホの森永卓郎
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207160413.html
『本人が反撃し、もがくしかないと思います。返り討ちに遭うかもしれない。でも、抵抗しないままだと、いじめはどんどんエスカレートします。相手と目が合ったときに「ふんっ」って、やるくらいでもいいんですよ』
本人も昔イジメに遭っていたらしいが、当時のイジメと今のはまったく違う。
今のは、完全な暴力であり、犯罪行為だ。
だから、抵抗しても何の効果もないし、だいたい一人で解決できなかったからこそ自殺しちゃったんじゃないのか?
しかも、森永本人が言うところの「いじめがなくなった理由」というのが、まったくよくわからない。
ホントにイジメに遭っていたのか?
それとも、ホントにイジメはなくなったのか?
今でも、皆から「キモい」とかいろいろ言われているけど、本人は何とも思っていないみたいだし、たぶん皆呆れているだけなんじゃなかろうか。
7月16日は、モデルの押切もえ
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207180580.htm
『人生の主役は自分。主人公が脇役からつらい目に遭(あ)わされる映画、ありますよね。でも、最後には必ず活躍する。いじめる子たちはしょせん脇役です。学校の外にはもっと広い世界があります。絶対におもしろい人生にしましょう』
この女の言っていることがさっぱりわからない。
主役とか脇役とかは、この際全然関係ないだろう。
しかも、例として出したのがハッピーエンドになるように作ってある映画の話って・・・
それに「おもしろい人生にしましよう」って言ったところで、本人にとっては「今」が大事。
そこを乗り切ることができずに、明るい将来が待っているなんて思えるはずがないだろうに。
7月18日は、社会学者の土井隆義
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207220207.html
『竜巻もいじめも、被害を避ける合理的な方法は、まず逃げることです。竜巻では進行方向から横に逃げるように、いじめに遭ったら、相手と同じ土俵から下りてしまうことです』
なぜに自然災害とイジメとを同列に扱うのだろう。
「逃げればいい」と簡単に言うけれど、それか難しいから困っているんじゃないのか?
これまた、何も言っていないのに等しい。
次は「いじめている君へ」編
7月21日は、タレントの細山貴嶺
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207210424.html
『僕は、君がなぜ人をいじめるのかを知りたい。本当は君も何かに苦しんでいるんじゃないだろうか。そうなら、いじめという形で発散せず、誰かに胸の内を話してみてほしい。僕は、君にも救われてほしいんです』
これは、被害者家族の前で「犯罪者にも事情がある」と言い放った民主党・平岡秀夫元法相と同じ発想だ。
http://www.youtube.com/watch?v=LswADT-mSs0
つまり「もう死んでしまった被害者なんかどうでもいい。加害者の人権こそ守られるべき」という相当捻じ曲がった考え方だろう。
はっきり言うが、今回の大津市の加害者のくそガキを擁護する部分って、まったくないだろう。
うち一人は、転校先の中学校でも暴力事件に加担していたとか言うし・・・
こういうヤツを救う意味がはたしてあるのだろうか。
最後は「いじめを見ている君へ」
7月15日は、ジャーナリストの江川紹子
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207150302.html
全体的に何を言っているのかよくわからない。
特に、『イスラエルという国で、兵役を拒み、パレスチナ人への迫害をやめようと声をあげた若い女性がいました。周囲から無視され、批判もされたけれど、私にこう言いました。「自分自身に正直であることが一番ハッピーなんだ」って』という一文は、イジメとは何の関係もないだろう。
「自分自身に正直」だと、イジメはなくなってハッピーになれるのか?
ピントはずれもいいところだ。
このように、いったい何のための特集なんだかさっぱりわからない。
一人で解決できれば、これほど大きな事件になるわけがない。
「ツカマロ」を初めとしたガキどもだけじゃなくて、学校の先生までが加担するから、自殺するしかなかったんじゃないのか?
結局のところ、イジメ(という名の暴力)をなくすためとか言いながら、「それは加害者やその親、あるいは学校の責任である」という肝心なことに触れようとしないから、こんなわけのわらない駄文の羅列になってしまうんだと思う。
これがつまり、朝日新聞の総意というわけだ。
でもこれって、いつまで続けるつもりなんだろう。
いろいろな受け取り方があって当然ですが、
細山君の記事に関しては、わたしは、
大津のような事件になるまえに「どうして、人を傷つけて心が痛まないのか?そのような心になってしまったにはわけがあるのでは?ストレスなのか何なのか?まずはいじめっ子側が変わらないといけない。」ということを伝えていると受け取りました。
大津の加害者を擁護するのではなくて、この先、あのような事件が起こらないために、いじめをやる側の心理をもっと研究しないといけない、そして、もし、加害者側にも悩みがあるのなら解決させないといけないという意味だと思います。短い記事なので伝わらない部分もあったかとは思います。
通りすがりでコメント、失礼いたしました。
大津の事件に関しては加害者側に実刑希望します(無理でしょうけど)
はじめまして。
おっしゃる通り「いじめをやる側の心理」を考えることは重要だと思います。
しかし、細川氏の「本当は君も何かに苦しんでいるんじゃないだろうか」という部分が引っ掛かるのです。
例え、いじめ側(加害者)が何かに苦しんだり悩んだりしていたとしても、それは「いじめ(暴力)の理由」にはならない、と思うわけです。
結局、こういう考え方が加害者の「擁護」につながるのではないですかねえ。
細山君が言うのは、いじめる側も、もともとは「心」のある人だったはず、そういうところから考えると、人を傷つけても平気(=心がない)になってしまったのには理由があって、その理由を解決すれば、いじめ問題の解決につながるのではないだろうか?という提案ですね。
擁護とは違うと私は思います。
(いじめ自体が起こる前に、止めるということですね)
彼の著書の「デブ、死ね、臭い!を乗り越えて」(マガジンハウス)を読みますと、はぶて虫さまと同じ意見が書かれております。
「いじめという形でそれを表現してよいということにはなりません」と。
短い文章で真意を伝えるのはむずかしいものですね。
わたしもいろいろと勉強になりました(^^)
みみさんのおっしゃることもよくわかります。
細川氏の著作まで読んでいるわけですから。
しかし、「いじめる側にも、もともと心はあったはず」という前提が疑問です。(いわゆる「性善説」?)
もちろん、いろんな環境の中でそうなってしまった人もいるでしょう。
しかし、そうでない人もいると思います。
それに、今回の加害者の場合、たとえ「昔はやさしい子であった」としても、「それが何なんだ」としか言いようがないと思います。
あと、私が「擁護につながる」と言っているのは、細川氏自身の考え方を指しているのではなく、そういう意見を悪用するヤツが出てくるに違いない、ということです。
いずれにしても、おっしゃる通り短い言葉で表現するのは難しいですね。