( 讃岐まんのう公園の季節の花の丘 )
「一億人の俳句入門」 理屈を破る 蛇笏賞選評
毎年出る山のような句集や雑誌を読みながら、最近、危惧しているのは言葉の表面の「意味」だけ、それを「理屈」でつないだ俳句が目立つこと、もしかすると徐々に増えていることである。
「理屈の句」はわかりやすい。なぜなら俳句の読者も人間である以上、社会の中で理屈にまみれて生活しているからである。そうすると、ほんとうは理屈の網を破るために俳句という文学はあるのに、理屈の網の中にいるまま理屈で俳句を作り、読んでしまう。
蛇笏賞をはじめ数々の俳句の賞は本来、この理屈の網を突き破った稀有な句集、別の言い方をすれば目の前に新しい世界を切り開いてくれる一冊の句集を発見し顕彰するためにある。しかし現実は俳壇で人気のある、つまり理屈でできている句集を追認するだけに終わってしまいがちである。
友岡子郷氏の『海の音』は現実から記憶のかなたへ、ときに生前死後の世界に遊ぶ。
手毬唄あとかたもなき生家より
母を知らねば美しきいなびかり
有馬朗人氏の『黙示』は、
オーロラの翼に弾み春満月
さつと手をあげて誕生仏となる
選考会ではこれらの句を褒める声があった。しかしどちらも理屈の句であると思う。これからの展開に注目したい。(角川文化振興財団「俳句」2018年6月号から転載)
<この師の文章を読んで、私が再度、自分のブログに転載した>
納得をしている。師のおしゃっていることは。
これが難しいのだ。
ネット句会、俳誌でいつも取り上げられている人達の句から学ぶのだが、彼等が詠むようには、私にはとても詠めない。
それで、見たまま平明な言葉で易しい句を自分なりにと詠んでも通じない。
背伸びをしても駄目、いつになれば理屈抜きの生きた言葉で句が詠みたい。
難しい言葉で一読しても難解な句こそ面白いと、人を煙に巻くような意見を述べた、新鋭の俳句作家がいたけれど、さて句として残るかといえば、押して知るべし「勝手にどうぞ結果は目に見えている」と、言いたくなる。
🍒 朴の花丈六仏に供えあり
🍒 ほととぎす啼きだす雨の止む気配