一日遅れで恐縮だが、昨12/23は今上陛下のお誕生日であった。ここに一言、祝意を申し上げ、ご高齢の今もご多忙下にある事とて、今後のつつがなきを心よりお祈りしたい所である。
開けて今日はクリスマス・イブ。お楽しみのご予定ある各位も多そうだが、俺は後述の事共で、どうもこの日を楽しめないでいる所だ。それは、我国の戦後処理で大きな一ページとなった、東京裁判こと極東国際軍事裁判の事。先の大戦、大東亜戦争こと太平洋戦争の引責の為とは言え、A級戦争犯罪人の烙印を押された板垣征四郎、木村兵太郎、東條英機、土肥原賢二、広田弘毅(ひろた・こうき)、松井石根(まつい・いわね)、武藤 章の各位は決して公正ではない審理の末に絞首刑を執行されたのである。その処刑の日が、正に昨日の天皇お誕生日。当時の連合国側は、反日一辺倒な空気に支配されていた事の証左ではないだろうか。又、この事が戦後の我国の事共全般に影を落とし、そのあり様を芳しくないものに貶めて行った側面も決して軽視できないものがあろう。前述の七名の方々は、後年「殉国七士」と称される様になる。
もう一つ、この事と関連して見過ごせないものに、戦後の死刑廃止の主張との関連がある。この主張は主に、社会民主・共産などの左派野党と、それに近い立場の左派弁護士などによって繰り広げられて来たのだが、勿論我国の多数世論と国民の利益を代表する立場では到底あり得ない。
一根拠が、1989=平成元年に国際連合で採択された、所謂死刑廃止条約の様である。国内での死刑判決及び執行が全て不能となるこの条約の締約の締約国は現在70ヵ国余。国際人権擁護機構アムネスティの主張する140ヵ国とは随分な開きがあり、同機構の主張は信用できない。ここは俺の邪推も入るのだが、相当数に上るイスラム諸国中、「報復無罪」の規定がある為死刑制度の必要のない国々まで「廃止国」に一方的に含まれているせいであり、実際に死刑廃止を実施している国々は、どう譲歩しても実質的には全世界の半分程度ではないかと心得るものだ。
どうも、数値データを改竄して自勢力に都合の良い情宣を繰り広げるのは、左派政治勢力や土建業界、東芝の様な大メーカーだけではないらしい。
最近でも多発している、内外の凶悪犯による複数殺人事件は、実質的には死刑判決が下って然るべきものであり、国民世論も依然として8割以上に支持されている。死刑廃止勢力が懸念するのは、冤罪事案の当事者が誤って処刑される事だろうが、そうであれば、究極の冤罪とも言える、東京裁判を強く糾す姿勢こそが求められるし、殉国七士への哀悼と敬愛の意も、勿論抱くべきであろう。さて今、所謂死刑廃止勢力にその様な気持ちがあるかと言えば、否である。相変わらず、最早聞き飽きたA級戦争犯罪人のレッテルを見直そうとはしないし、「極悪人」の捨て台詞も改められてはいない。そんな姿勢で尤もらしく「死刑廃止」など口走られても、そも説得力がないと言うものではないだろうか。
最近になって、ようやくそうした不良姿勢に、少しは改善の兆しも見えて来た様な所がある。例えば、今秋判決を見た旧オウム真理教女性構成員の弁護士は「無罪だからと、この判決を単純に喜んだり、勝利などともてはやしたりしてはならない。事件の陰に、幾多の被害者がいらす事を忘れてはいけない」とコメントしておられた。これこそが人道に基づく良識であり、法曹人としての矜持だろう。戦後ずっと蔑にされ続けて来た所だ。これが直ちに大きな改善へ向かうとも思えないが。
殉国七士の墓所建設に尽力されたのも、東京裁判の被告弁護を担われた方だったと聞いている。こうした心がけが廃れたのは、左派野党が法曹界に影響力を持つ様になってからだと言われるが、安倍政権の施策を待つ事なく、我々国民市民レベルでもこうした事の検証と見直しを勇気を以て行って参る事、それらを末永く持続させる事の必要性を痛感するものである。
殉国七士の墓所「殉国七市廟」は、実は当地愛知に所在している。穏やかな三河湾を臨む三ヶ根山の頂近く。俺も一度は参拝に伺ったものだ。
我国の死刑廃止勢力中、その事を堂々と主張できるのは、殉国七士の方々に対し、謙虚に跪き、頭を下げる事のできる者だけだ。
振り返って同勢力の大半はどうか。政党名、組織名を見れば、その努力をしない連中が殆どではないのか。その様な空々しい主張は、我国の国益、国民の幸せに沿ったものではなく、在留外国人の利害を優先するものと思われても仕方あるまい。元より説得力などない。
今回画像は、その三ヶ根山近くを行く、東海道新幹線の模様であります。今回記事の最後に、東京裁判に際し、殉国七士の方々の全員無罪判決の為奔走し、結果果たせずも、後世に残る名言を残されたインド国の法学者、R・Bパール博士の、同裁判の判決意見書結語をご紹介して参ります。
『時が 熱狂と偏見をやわらげた暁には また理性が虚偽から その仮面を剝ぎとった暁には その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに そのところを変えることを要求するであろう。』
開けて今日はクリスマス・イブ。お楽しみのご予定ある各位も多そうだが、俺は後述の事共で、どうもこの日を楽しめないでいる所だ。それは、我国の戦後処理で大きな一ページとなった、東京裁判こと極東国際軍事裁判の事。先の大戦、大東亜戦争こと太平洋戦争の引責の為とは言え、A級戦争犯罪人の烙印を押された板垣征四郎、木村兵太郎、東條英機、土肥原賢二、広田弘毅(ひろた・こうき)、松井石根(まつい・いわね)、武藤 章の各位は決して公正ではない審理の末に絞首刑を執行されたのである。その処刑の日が、正に昨日の天皇お誕生日。当時の連合国側は、反日一辺倒な空気に支配されていた事の証左ではないだろうか。又、この事が戦後の我国の事共全般に影を落とし、そのあり様を芳しくないものに貶めて行った側面も決して軽視できないものがあろう。前述の七名の方々は、後年「殉国七士」と称される様になる。
もう一つ、この事と関連して見過ごせないものに、戦後の死刑廃止の主張との関連がある。この主張は主に、社会民主・共産などの左派野党と、それに近い立場の左派弁護士などによって繰り広げられて来たのだが、勿論我国の多数世論と国民の利益を代表する立場では到底あり得ない。
一根拠が、1989=平成元年に国際連合で採択された、所謂死刑廃止条約の様である。国内での死刑判決及び執行が全て不能となるこの条約の締約の締約国は現在70ヵ国余。国際人権擁護機構アムネスティの主張する140ヵ国とは随分な開きがあり、同機構の主張は信用できない。ここは俺の邪推も入るのだが、相当数に上るイスラム諸国中、「報復無罪」の規定がある為死刑制度の必要のない国々まで「廃止国」に一方的に含まれているせいであり、実際に死刑廃止を実施している国々は、どう譲歩しても実質的には全世界の半分程度ではないかと心得るものだ。
どうも、数値データを改竄して自勢力に都合の良い情宣を繰り広げるのは、左派政治勢力や土建業界、東芝の様な大メーカーだけではないらしい。
最近でも多発している、内外の凶悪犯による複数殺人事件は、実質的には死刑判決が下って然るべきものであり、国民世論も依然として8割以上に支持されている。死刑廃止勢力が懸念するのは、冤罪事案の当事者が誤って処刑される事だろうが、そうであれば、究極の冤罪とも言える、東京裁判を強く糾す姿勢こそが求められるし、殉国七士への哀悼と敬愛の意も、勿論抱くべきであろう。さて今、所謂死刑廃止勢力にその様な気持ちがあるかと言えば、否である。相変わらず、最早聞き飽きたA級戦争犯罪人のレッテルを見直そうとはしないし、「極悪人」の捨て台詞も改められてはいない。そんな姿勢で尤もらしく「死刑廃止」など口走られても、そも説得力がないと言うものではないだろうか。
最近になって、ようやくそうした不良姿勢に、少しは改善の兆しも見えて来た様な所がある。例えば、今秋判決を見た旧オウム真理教女性構成員の弁護士は「無罪だからと、この判決を単純に喜んだり、勝利などともてはやしたりしてはならない。事件の陰に、幾多の被害者がいらす事を忘れてはいけない」とコメントしておられた。これこそが人道に基づく良識であり、法曹人としての矜持だろう。戦後ずっと蔑にされ続けて来た所だ。これが直ちに大きな改善へ向かうとも思えないが。
殉国七士の墓所建設に尽力されたのも、東京裁判の被告弁護を担われた方だったと聞いている。こうした心がけが廃れたのは、左派野党が法曹界に影響力を持つ様になってからだと言われるが、安倍政権の施策を待つ事なく、我々国民市民レベルでもこうした事の検証と見直しを勇気を以て行って参る事、それらを末永く持続させる事の必要性を痛感するものである。
殉国七士の墓所「殉国七市廟」は、実は当地愛知に所在している。穏やかな三河湾を臨む三ヶ根山の頂近く。俺も一度は参拝に伺ったものだ。
我国の死刑廃止勢力中、その事を堂々と主張できるのは、殉国七士の方々に対し、謙虚に跪き、頭を下げる事のできる者だけだ。
振り返って同勢力の大半はどうか。政党名、組織名を見れば、その努力をしない連中が殆どではないのか。その様な空々しい主張は、我国の国益、国民の幸せに沿ったものではなく、在留外国人の利害を優先するものと思われても仕方あるまい。元より説得力などない。
今回画像は、その三ヶ根山近くを行く、東海道新幹線の模様であります。今回記事の最後に、東京裁判に際し、殉国七士の方々の全員無罪判決の為奔走し、結果果たせずも、後世に残る名言を残されたインド国の法学者、R・Bパール博士の、同裁判の判決意見書結語をご紹介して参ります。
『時が 熱狂と偏見をやわらげた暁には また理性が虚偽から その仮面を剝ぎとった暁には その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに そのところを変えることを要求するであろう。』