ときどき行く日帰り温泉施設ひかわ美人の湯、風呂上がりに暖簾のぶら下がる入り口あたりで涼んでいると、目の前にビンの牛乳の自販機がある。
白い牛乳とコーヒー牛乳だが、何故かビンの牛乳に懐かしさを覚える。
あたかも妙齢のご婦人(オバさんともいう)が、ビンの牛乳を飲み干し「ビンで飲むの久しぶり」と大きな声で言うのだ。
なんだか感動してるようだった。
すると何を飲もうかとガラスの中を検討していた定年退職風のおとうさんが、突然キッパリと「牛乳!」と決断したのだ。
アタクシはこのあとに控える生ビールを美味しく飲むために、ノドをカラカラに乾かしたのだが、急に心が動き「牛乳!」と宣言するのだった。
こうしてこの自販機は、一挙に3本の牛乳が売れることになった。
最初のオバさんの「ビンで飲むのって久しぶり」という不用意な発言が、周りの人の「ビンの牛乳の郷愁」を誘ったのだ。
オバさんというものは、えてして「あたりかまわず思ったことを不用意に口に出す」という点で、世間のとかく批判の的になっている。
しかしこの場合はオバさんの特性である「不用意な発言」が、その周辺の2人の郷愁を誘い、決断をうながすことになったのだ。
オバさんは社会に大きく貢献したのであった。
これからは、オバさんの特性を一概に非難してはいけないな、とその時つくづく思った。
牛乳はビンで飲むと確かに美味しい
牛乳ビンは手に持った重さがいい。
180CCという容量が人間の胃袋の大きさに合う。
下唇にあたるビンのフチの厚さが口の大きさにピッタリ合う。
缶は缶の都合に人間の唇が合わされるが、ビンは人間の都合にビンが合わせてくれる。
ビンで飲む牛乳は、自然に流れてきた牛乳が自然にノドを通っていくときのノド越しが、独特の美味しさを生むのかもしれない。
飲み終わったあとの重量感なども、缶や紙パックなどとは比べ物にならぬ郷愁がある。
ペットボトルなど無かった遠い昔の昭和時代は、ヤクルトもビンであったと記憶する。
最初のオバさんは「自分の人生に改善すべき点など一つもない」という決意をエラのあたりで示しつつ、ゆっくりゆっくりと歩くのであった。
白い牛乳とコーヒー牛乳だが、何故かビンの牛乳に懐かしさを覚える。
あたかも妙齢のご婦人(オバさんともいう)が、ビンの牛乳を飲み干し「ビンで飲むの久しぶり」と大きな声で言うのだ。
なんだか感動してるようだった。
すると何を飲もうかとガラスの中を検討していた定年退職風のおとうさんが、突然キッパリと「牛乳!」と決断したのだ。
アタクシはこのあとに控える生ビールを美味しく飲むために、ノドをカラカラに乾かしたのだが、急に心が動き「牛乳!」と宣言するのだった。
こうしてこの自販機は、一挙に3本の牛乳が売れることになった。
最初のオバさんの「ビンで飲むのって久しぶり」という不用意な発言が、周りの人の「ビンの牛乳の郷愁」を誘ったのだ。
オバさんというものは、えてして「あたりかまわず思ったことを不用意に口に出す」という点で、世間のとかく批判の的になっている。
しかしこの場合はオバさんの特性である「不用意な発言」が、その周辺の2人の郷愁を誘い、決断をうながすことになったのだ。
オバさんは社会に大きく貢献したのであった。
これからは、オバさんの特性を一概に非難してはいけないな、とその時つくづく思った。
牛乳はビンで飲むと確かに美味しい
牛乳ビンは手に持った重さがいい。
180CCという容量が人間の胃袋の大きさに合う。
下唇にあたるビンのフチの厚さが口の大きさにピッタリ合う。
缶は缶の都合に人間の唇が合わされるが、ビンは人間の都合にビンが合わせてくれる。
ビンで飲む牛乳は、自然に流れてきた牛乳が自然にノドを通っていくときのノド越しが、独特の美味しさを生むのかもしれない。
飲み終わったあとの重量感なども、缶や紙パックなどとは比べ物にならぬ郷愁がある。
ペットボトルなど無かった遠い昔の昭和時代は、ヤクルトもビンであったと記憶する。
最初のオバさんは「自分の人生に改善すべき点など一つもない」という決意をエラのあたりで示しつつ、ゆっくりゆっくりと歩くのであった。