はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

『あん』(日仏独、2015)

2015年06月11日 | 映画(今年公開の映画を中心に)


 このブログで繰り返し述べているが、この世に完璧な人間なんて、おそらくいない。ごく最近のお気に入りのフレーズで表現するなら、人間は皆、「尊ばれるべき霊性」と「愛すべき無様さ」の両面を持った存在だ。表面上は様々な属性によって差異が見られても、外側の虚飾を剥いで、その内面を突き詰めれば、皆、そんなものだと思う。

 斯くいう私も偏見や差別意識においては、自分の無知を恥ずべき点が多々ある。人間が何かを厭い、遠ざけるのは、大抵無知から来る偏見が原因であることが多い。

 映画『あん』においても、ハンセン病に対する人々の偏見と無理解が描かれているが、これは政府の90年近くに及ぶハンセン病患者隔離政策(1907-1996)による弊害と言えるだろう。

 私は偶然にもこれまで一般の人々よりは、ハンセン病について、身近で見聞する機会があった。

 若かりし頃、国家公務員試験に合格し、行政事務職採用面接の為に、当時、厚生労働省の管轄下にあった、あるハンセン病患者隔離施設を訪ねたことがある。まだ「らい予防法」で患者の隔離政策がとられていた頃の話である。しんと静まり返った施設内に患者の姿はなかったが、当時はハンセン病に対してあまりにも無知であるが故に、そこで働く自分の姿が、どうしても想像できなかった。

 最近では、昨年、沖縄県立美術館で開催された「木下晋展」で、ハンセン病患者で詩人のS氏の肖像画を目にする機会があった。病気の為に容貌が著しく変形したS氏の肖像には、木下氏の入魂とも言うべき筆致によって、「人間の尊厳とは何なのか」を、見る者に改めて問いかける迫力があった。

 今回、映画の中で、ほんの一瞬だが、そのS氏の写真が名前と共に映し出された。何と言う偶然であろう。

 また、私が中東に駐在していた約20年前まで、当地ではハンセン病患者が存在していた。その姿を実際に見ることはなかったが、ハンセン病は聖書にも度々「らい病」と言う名で登場し、映画『ベンハー』でも、主人公ベンハーの母と姉がハンセン病を患い、人里離れた洞窟の中で身を隠すように暮らすシーンが描かれる等、古来より中東では比較的知られた病だったのだろう。

 しかし、ハンセン病に関しては既に何十年も前に特効薬が開発され、それを服用した患者は感染源になることもない。今や日本では、ハンセン病の新規罹患者は皆無に等しく(日本で発生する新規患者はほぼ全員が海外から渡航して来た外国籍らしい。一方、世界では今もインド等開発途上国を中心に、年間25万人の新規患者が発生していると言われている)、普段の生活の中で元ハンセン病患者の姿を見かけることもなく、一般の人々からは益々ハンセン病が遠い世界の話になっている。だからこそ、映画「あん」で描かれたような、元患者に対する心無い中傷が起こり得る状況になっていると言えよう。


 ただし、映画「あん」は、様々な事情で心に傷を負った人々を描いた作品であり、元ハンセン病患者である餡(あん)作り名人の老女、徳江(樹木希林)は、その一人に過ぎない。

 鯛焼き屋の雇われ店長の千太郎(永瀬正敏)にしても、高校進学を諦めようとしている女子中学生ワカナ(内田伽羅・樹木希林の孫娘)にしても、それぞれに悲しい過去や、どうしようもない現実を抱えて、自信を失い、痛々しいまでに世の中に遠慮して生きている。千太郎とワカナは、店長と常連客と言う関係を超えて、互いを支え合うような関係である。そこには、生きることに不器用な人間の、敬愛すべき優しさがある。

 そんな二人の前に、桜の季節(春爛漫の桜並木が美しい!)に突然現れたのが、徳江だった。桜吹雪舞う中、鯛焼き屋の甘い香りに誘われるように訪ねて来た徳江は、バイト募集の張り紙を見て、70半ばの自分を雇ってくれないかと請う。高齢を理由に頑なに断る千太郎だが、ある日、徳江が無理やり置いて言った自作の餡を口にして、その美味さに驚き、徳江を雇うことに決めたのだった。

 この徳江との出会いから彼女を雇い入れるまでの、千太郎の心境の変化が丁寧に描かれていて、物語の展開に無理がない。徳江の一言一言が、萎縮した千太郎の心を徐々に解き放して行くのが見て取れて、私自身も徳江の言葉にいつしか癒されていた…



 徳江は真摯に耳を傾ければ、自然の声を聴くことが出来ると言う。動物達の声も、森の木々や草花の声も、そして、そよぐ風の声も…

 故に、人は何者かにならずとも、ただそこに居るだけで、生きる価値があるのだと、徳江は目前に広がる自然の風景を心から慈しむように見遣りながら言う。

 幼い頃に得た病で、家族から引き離され、世間からも隔離され、身ごもった我が子をその手に抱くことも許されなかった徳江の言葉である。言われなき差別で人生を奪われた人の言葉の、なんと滋味深いことか…

 こんな私でも「大丈夫。生きていて良いんだよ」と、スクリーン越しに徳江婆に言われたようで、心が軽くなった。スクリーンの中の千太郎もワカナも、徳江のその一言に救われたのではないか?

 ふと、新約聖書「マタイによる福音書」第5章の有名な一説が頭に浮かんだ。
 
 心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 
 悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。

 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、
 その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人々は、幸いである、
 その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、
 その人たちは神を見る。

 平和を実現する人々は、幸いである、
 その人たちは神の子と呼ばれる。
 
 義のために迫害される人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 
 徳江のように、不遇の中にあっても、謙虚に自らを省みられる人だけが、かくのごとき透徹した境地を得るのだろうか?

 だとすれば、自分の身に起きる理不尽な出来事にも徳江のような態度で臨めば、ただただ自分の不運を嘆くのではなく、何らかの意味を見出して強く生き抜くことができるような気がする。


 この映画もまた、生きることの意味を考えさせられる、得難い作品であった。

           季節は巡り、また桜の季節がやって来た…



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