この世のすべてのモノゴトには、プラスとマイナスの両面がある(周知のことながら、このことについて、改めて考えてみたい)。
それは一枚の紙の表側と裏側のような関係で、互いが相反する関係でもある。どちらか一方だけが存在することはあり得ない。
そのことを踏まえて、常に日々の出来事を見るよう心がければ、多少は気が楽になるのかもしれない。他人の不可解な行動にも寛容になれそうだ。
例えば、世の中、便利な道具が発明されれば(←プラス面)、ヒトはその便利さに頼りきって、本来自分が持っていた能力を失ないがちだ(←マイナス面)。
自動車など、その最たるものだろう。公共交通機関の発達していない地方都市では、自動車は移動手段として必須だ。ところが、それに頼るあまり、地方のヒトは昔ほど歩かなくなっているらしい。歩いて10分かそこらのコンビニまで自動車で行ったり、子供の塾の送迎にも自動車を使う(都会の子供より地方の子供の方が運動不足?)。
以前なら普段の生活の活動量だけで十分運動になっていたはずが、今ではわざわざウォーキングやジム通いをしないと運動不足で生活習慣病になってしまう。
また、便利な道具で省力化を図れたから、それで浮いた時間を別のより創造的なことに使おうと考えても、発明は同時に時間を奪う道具も生み出すから、実のところ、ヒトは自分が思うほど時間を有効活用できていないのではないか(後で知ったのだが、堀江貴文氏が某テレビ番組で、これと正反対のことを言っていた(笑)。浮いた時間をより創造的なことに使うなんて、堀江氏のような人だから出来ることなのではないか?堀江氏は「そんなの当たり前でしょ」と言う風であった。確かに、そうであって欲しいが、世の大半の人々はそうではないと思う。こうした意識の違いから、生き方・パフォーマンスにも差が出て来るのだろう)。
プラスマイナスの法則は、当然ながら人間にも当てはまる。個々の人間の長所は短所にもなり得る(もちろん、その逆もまた然り)。
例えば、仕事をテキパキとこなす、自他共に"働き者"と認めるヒトがいる。仕事の上では頼りになる存在である。ところが、そのヒトがその場からいなくなった途端、普段、親しくしているヒトに、「あの人はいつも忙しなくて、一緒にいると疲れるのよね」と愚痴をこぼされたりもするのだ。
皮肉なことに、そのヒトの一瞬たりとも時間を無駄にしない動きが、回りにいる人間に圧迫感を与えていたりする。視点をずらせば、長所は短所にもなるのだ。
一見して上品で、誰にでも親切なヒトがいる。主義主張も一貫して公正である。ところが、そんなヒトが、時折、皮肉屋でいじわるな一面を見せたりするのだ。差別意識も露だったりする。
察するに、そのヒトは傍目には誰もが羨む恵まれた環境にいても、何がしかの悩みや不満や劣等感を抱えているのかもしれない。しかし、その置かれた立場、プライドゆえに自分の弱さを他人には曝け出せず、その内面の苛立ちが、他人への陰湿な攻撃と言う形に出てしまうのではないだろうか?そうすることで、自らの精神のバランスを保とうとしているのかもしれない。
そして攻撃の標的になるのは、大抵そのヒトから見れば地位、能力、容姿すべてに自分より劣るのに、なぜか常に満たされているような人物である。満たされているから、反撃などしないタイプ。しかも、自分の弱さは、自分が見下しているはずの相手に、見透かされてしまっている。そのことに、当の本人は気づいているのかどうか…
結局、このことが意味するのは、「完璧な人間などいない」と言うことなのだろう。ひとりひとりが長所・短所、両方ひっくるめての存在であると言うこと。その前提に立って、個々の人間の在りようを観察することで初めて、人間は他人に対して寛容になれるのかもしれない。
それでは、他人の欠点が目に付いて仕方がない時には、どうすれば良いのか?その場合は、まず何より自分自身を省みることだろう。
他人の粗探しをしている自分は、果たしていかほどの人間なのかと。人間は皆、尊ばれるべき霊性と愛すべき無様さを備えている。それが人間なのだと。そして紛れもなく自分もその一人なのだ…人間が人間を裁くことなど、僭越なる行為以外のなにものでもないのだ、たぶん。
自戒を込めて…
それは一枚の紙の表側と裏側のような関係で、互いが相反する関係でもある。どちらか一方だけが存在することはあり得ない。
そのことを踏まえて、常に日々の出来事を見るよう心がければ、多少は気が楽になるのかもしれない。他人の不可解な行動にも寛容になれそうだ。
例えば、世の中、便利な道具が発明されれば(←プラス面)、ヒトはその便利さに頼りきって、本来自分が持っていた能力を失ないがちだ(←マイナス面)。
自動車など、その最たるものだろう。公共交通機関の発達していない地方都市では、自動車は移動手段として必須だ。ところが、それに頼るあまり、地方のヒトは昔ほど歩かなくなっているらしい。歩いて10分かそこらのコンビニまで自動車で行ったり、子供の塾の送迎にも自動車を使う(都会の子供より地方の子供の方が運動不足?)。
以前なら普段の生活の活動量だけで十分運動になっていたはずが、今ではわざわざウォーキングやジム通いをしないと運動不足で生活習慣病になってしまう。
また、便利な道具で省力化を図れたから、それで浮いた時間を別のより創造的なことに使おうと考えても、発明は同時に時間を奪う道具も生み出すから、実のところ、ヒトは自分が思うほど時間を有効活用できていないのではないか(後で知ったのだが、堀江貴文氏が某テレビ番組で、これと正反対のことを言っていた(笑)。浮いた時間をより創造的なことに使うなんて、堀江氏のような人だから出来ることなのではないか?堀江氏は「そんなの当たり前でしょ」と言う風であった。確かに、そうであって欲しいが、世の大半の人々はそうではないと思う。こうした意識の違いから、生き方・パフォーマンスにも差が出て来るのだろう)。
プラスマイナスの法則は、当然ながら人間にも当てはまる。個々の人間の長所は短所にもなり得る(もちろん、その逆もまた然り)。
例えば、仕事をテキパキとこなす、自他共に"働き者"と認めるヒトがいる。仕事の上では頼りになる存在である。ところが、そのヒトがその場からいなくなった途端、普段、親しくしているヒトに、「あの人はいつも忙しなくて、一緒にいると疲れるのよね」と愚痴をこぼされたりもするのだ。
皮肉なことに、そのヒトの一瞬たりとも時間を無駄にしない動きが、回りにいる人間に圧迫感を与えていたりする。視点をずらせば、長所は短所にもなるのだ。
一見して上品で、誰にでも親切なヒトがいる。主義主張も一貫して公正である。ところが、そんなヒトが、時折、皮肉屋でいじわるな一面を見せたりするのだ。差別意識も露だったりする。
察するに、そのヒトは傍目には誰もが羨む恵まれた環境にいても、何がしかの悩みや不満や劣等感を抱えているのかもしれない。しかし、その置かれた立場、プライドゆえに自分の弱さを他人には曝け出せず、その内面の苛立ちが、他人への陰湿な攻撃と言う形に出てしまうのではないだろうか?そうすることで、自らの精神のバランスを保とうとしているのかもしれない。
そして攻撃の標的になるのは、大抵そのヒトから見れば地位、能力、容姿すべてに自分より劣るのに、なぜか常に満たされているような人物である。満たされているから、反撃などしないタイプ。しかも、自分の弱さは、自分が見下しているはずの相手に、見透かされてしまっている。そのことに、当の本人は気づいているのかどうか…
結局、このことが意味するのは、「完璧な人間などいない」と言うことなのだろう。ひとりひとりが長所・短所、両方ひっくるめての存在であると言うこと。その前提に立って、個々の人間の在りようを観察することで初めて、人間は他人に対して寛容になれるのかもしれない。
それでは、他人の欠点が目に付いて仕方がない時には、どうすれば良いのか?その場合は、まず何より自分自身を省みることだろう。
他人の粗探しをしている自分は、果たしていかほどの人間なのかと。人間は皆、尊ばれるべき霊性と愛すべき無様さを備えている。それが人間なのだと。そして紛れもなく自分もその一人なのだ…人間が人間を裁くことなど、僭越なる行為以外のなにものでもないのだ、たぶん。
自戒を込めて…