はなこのアンテナ@無知の知

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山陰旅行(5)~松江:武家屋敷、小泉八雲記念館

2006年08月25日 | 山陰旅行(2006年夏)


松江:武家屋敷

堀川巡り遊覧船発着所から堀川伝いに歩いて10分程の
場所に、松江市伝統美観保存指定地区の武家屋敷群が
あります。長い土塀が続く街並みです。
外観は城下町独特の情緒がたっぷりだったものの、
ツアーの中に組み込まれていた武家屋敷は、
中に入れるわけでもなく、ただ母屋を外周するだけ。
武家屋敷と言えば、金沢でもっと規模の大きなものを見たし、
そこでは中も見学ができたので、それに比べたら今回の見学では
目を引く展示物も少なく、少し物足りなさを感じました。
武家屋敷と言えば、観光目的で見る分には、
何処もそれほどの違いはないのかな。

松江:小泉八雲記念館

その武家屋敷群の一角に、明治時代、世界に向けて日本を
紹介した作家小泉八雲の記念館があります。


左)小泉八雲記念館外観。昭和59年に改築された平屋和風造り。 
右)塩見縄手通りを隔てた堀川沿いに立つ小泉八雲の胸像。
  八雲来松100周年に当たる平成2年に建立されたもの。


正直言って私は小泉八雲について詳しくは知りませんでした。
明治時代に来日した外国人で、山陰地方の松江に住み、
「怪談」などを著わし、世界に日本の文化を紹介した作家、
というだけで、その詳しい来歴は今回の記念館見学で初めて
知った次第です。

記念館自体は床面積が162.3㎡と言いますから、
一般の戸建て住宅並みの広さで、記念館としては小規模なもの。
壁伝いに設置されたショーケースなどに、
小泉八雲ゆかりの品々が展示されていました。
印象的だったのは天板の位置がひときわ高い机。
私が座れば、天板がすぐ目の前に迫って来そうです。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、
1850年にギリシャのレフカダ島で、
アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に誕生。
2歳でアイルランドのダブリンに移住後、
間もなくして両親が離婚し、同じダブリン在住の大叔母に
引き取られたそうです。
イングランドの神学校に在学中、16歳の時に左目を失明。
その後右目もひどい近眼になった彼は、読書はもちろんのこと、
書き物をする時も、目と原稿が今にもくっつかんばかりに
近付けなければ、字がよく見えなかったようです。
その為に天板が高い机を使用していたわけですね。
こういった彼の不遇も、記念館を訪ねて初めてわかったこと。
著作物だけでは計り知れない作家像というものを、
記念館の遺物が教えてくれるんですね。

意外だったのは、彼が来日前にアメリカでジャーナリスト
として活躍していたこと。ニューオリンズやシンシナティで
活動していたようです。来日したのは39歳の時でした。
当時のチェンバレン東大教授らの紹介で松江の中学校や
師範学校の英語教師として、松江に赴任。当地で知己を得、
その風物や人情が気に入って、武家の娘小泉セツとも結婚
(彼が日本人に親近感を覚えたのは、彼がアイルランド人
にしては比較的小柄だったから、という説もあるようです)


これまた意外だったのが、病弱であったことも理由で、
松江の冬の寒さと大雪に閉口した彼は、わずか1年3カ月で
松江を去り、以後熊本、神戸、東京と移り住んだことでした。
東京では東大や早稲田大で教鞭を取っています。
”松江の小泉八雲”というイメージが強かっただけに、
この事実は本当に意外。(私が知らなかっただけか(^_^;))

住みよい場所を求めて、躊躇なく?別の場所へ移住する
その身軽さは、現代のピーター・フランクル氏を彷彿させる。
昔からいたのですね。自由人(=放浪?漂白の人?)は。
そして彼らのような自由人が、関わった土地に刺激を与え、
革新をもたらしたり、何か大きな仕事を成し遂げることが
少なくないのでは…成し遂げたからこそ名前が歴史に残った
とも言えるかもしれませんが。

1904年9月に、小泉八雲は狭心症の為、54歳で死去
しています。セツとの間に3男1女をもうけていますが、
息子のひとりはフォーヴィズムの画家として活躍したらしい。
これもまた、今回の記念館訪問で知ったことでした。
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