言うまでもなく、時代によって求められる(重宝される)能力は異なる。
さる本に、現代では社会生活を営む上でハンディとなりがちな「発達障害」は、太古の狩猟時代には、その特性がアドバンテージとなって多くの獲物を仕留め、重宝がられた可能性がある、と書かれていた。
つまり、彼らは生まれる時代を間違えたのだ、と。
逆に人間が巨大な集団を形成するようになり、社会が複雑多様化した現代、その重要性が格段に増したのが、「コミュニケーション能力」と「プレゼン能力」だ。
人と円滑に意思疎通ができること、人前で自分の考えや訴えたい事柄を、口頭で巧みに表現できること。
特に後者はオーディオ・ビジュアルの寵児TVの時代になって俄然注目を集め始め、YouTubeの登場によって、その重要性は決定的になった。
私は約20年前から12年間、美術館で鑑賞教育普及ボランティアとして、数多くの児童生徒と関わって来たが、ちょうど私がボランティアを始めた頃に、学校現場では「調べ学習」という手法が導入され、特に児童は個人またはグループで、ある事柄について本やインターネットで調べた内容を何分間かのレポートにまとめ上げ、人前で発表するトレーニングを受けるようになった。
このトレーニングは、美術館における鑑賞教育の場でも、児童生徒の発言能力を確実に高めて行った。20年前の児童生徒と、それから12年を経た8年前の児童生徒とでは、発言の頻度や内容、言葉の明瞭さで、後者の方が上回っていた。
しかし、人間の気質や器質は一様ではない。同じ程度の知識や認知能力を持っていても、それを発露するプレゼン能力の優劣で、個々が持っている能力を正当に評価されない可能性があるのだ。
これは例えば企業の採用面接でも、同様のことが起こり得る。もちろん、営業職ならプレゼン能力はより重視されるので、面接でその能力が発揮できなければ採用されないのは当然のことだ。しかし、プレゼン能力の優劣で、優秀な人間を取りこぼす可能性も否定できない(逆に能弁なだけで実務能力に乏しい人を採用するリスクも)。
採用担当者は、そんなことは百も承知で採用面接に臨んでいる、と言われるかもしれないが。
特に私が危惧しているのは、コミュニケーション能力やプレゼン能力が乏しい人々の扱いだ。
そう言う人々が採用面接で篩い落とされて、仕事に就けないのは社会の損失だと思う。
これも発想の転換で、今の社会が求める能力と自身の持っている能力が合致していないのなら、主流からは外れるかもしれないが、自分を活かせそうなジャンルの職場を探した方が、働くことの喜びを確実に得られると思う。
皆が同じ方向を目指す必要はないのだ。
最近、タレントの小島よしお氏が興味深い話をしていた。
「雑草は一般に逞しいと言われますが、競争に勝ち抜いて根付いているわけではないんです。ほら、コンクリートの割れ目とかに根付ていたりするでしょう?実は雑草は誰も根付かないだろうという場所を探して、根付いているんです。僕も雑草に倣って、他の人とは競争せずに、自分が活きて行けそうな場所を見つけて、そこで頑張ったんです。」
かつてTVの世界で「一発屋芸人」と揶揄された小島氏は、今や活躍の舞台をYouTube や全国各地のイベント会場等に移して、“かつての小島氏の芸をTVで楽しんだ世代”の子ども達のアイドルになっている。
学問の分野も似たようなもので、「誰も手を付けないようなニッチな分野」、或いはもっと踏み込んで「前人未到の分野」に目を付けると成功の確率が上がると、恩師の1人に言われたことがある。「研究テーマを選んだ時点で、研究の成否の90%が決まる。」と。何にしても、“目の付けどころ”は重要なのだ。
おそらくノーベル賞受賞者の殆どが受賞対象の研究を始めた頃(数十年前!)は、彼らの研究は世に知られていないか、まだ世間で注目されていなかったはずだ。
今の自分としての人生、一度しかないなら、自分らしく楽しく生きたいものです。
(了)