「ならば、わしらと一緒に大和へ参ろう、根日女。わしも兄者もそなたが身近にいさえしてくれれば、これまで同様、時の流れにわれらが愛の行方を任せられる」
「いずれ、そなたがわれら兄弟のどちらを選ぶことになっても、決して泣きも恨みもせぬ。愛が憎悪に変わるのは、その愛が浅いからなのだ。わたしもヲケも、その深さは深海のごとしじゃ」
兄弟皇子は競い合うように根日女に懇願した。ウソ偽りが一切混じらぬ心情を吐露する二人の姿は、根日女の胸を熱く揺り動かした。
根日女は兄弟皇子のまっすぐな熱情に、ふいに身を委ねる気にとらわれた。いつしか、わが身が兄弟皇子のの方へ傾いでいくのを自覚した。根日女は運命にすべてを委ねようの思いを募らせ、目を閉じた。
(!)
その刹那、根日女の本能は、もうひとつの気を感じとった。もの心がついたときにはすでに身の近くにあり、惜しみなく注がれる愛の気が根日女をジーッと見つめていた。根日女は耐えられず、それでもゆっくりと、その気を確かめるために目を上げた。
根日女の視界に、父許麻がいた。その岩相は懊悩と虚脱感に支配されて蒼白だった。まるで痴呆のように顔中の筋肉を弛緩させて立ち尽くしていた。わが身のすべてを投じた愛の終焉を目の前にした父親の愚かな未練と喪失感が、彼の総身を市街していた。
「おとうさま……?」
根日女は一瞬にして正気を取り戻した。愛の勘定のうねりに身を委ねようとしたおのれに気付き、強い恥じらいを覚えた。
根日女は背筋をピーンと張った。賀茂の国の希望と夢を担った王女の顔になった。根日女は賀茂の国を照らす太陽そのものの存在なのである。
「オケさま、ヲケさま。根日女はやはり皇子様らのお望みに応えられませぬ。賀茂の国を去って大和の地には参ることができませぬ。おふた方をお慕いする根日女の心に偽りなどありはしませぬが、わたしにはその前に守らなければならぬ大切なものが、限りなくあるのです。それを見捨てるなど、どうしてわたしにできましようぞ。この地にとどまるのがわたしにさだめられたものなです!どうぞお許しくださいませ」
根日女は深々と頭を下げた。もはや何物にも妥協を許すまいとする強固な意志が、その姿から溢れていた。
「わかった。ならば根日女よ、われらと約束してほしい。大和の都を平定し平穏を取り戻せれば、われら兄弟のどちらかが大和の大王になるだろう。その暁には、そなたが守ろうとする大切なものを、われらが守ってやれる力を手にする。そうなれば、そなたに、もうなんら異存はなくなろう。その日を胸に刻み、われらは都に戻る。根日女よ、必ずそなたを迎えにくる。約束は断じて違えぬ。その日を待っていてくれ。いいな」
固く誓って、オケとヲケの兄弟皇子は大和を目指して急ぎ旅立った。
心ここにあらずと見送る根日女だった。
許麻は娘の思慕を翻意させたものが、おのれの存在や賀茂の国の愛する民人らに向けた慈愛のゆえと気づいている。
「根日女よ。そなたはこれでよいのか?これで……!」
父が何度も暗黙の裡に兄弟皇子とともに大和へいけと促しているのに気づく根日女だった。だからこそ、根日女はこの地を離れられないのだ。わが身を愛してくれる多くの民人を、父を見捨てられないのである。
根日女は父許麻に優しく透き通った頬笑みを与え、天女のごとく静かにかぶりを振った。
許麻が部屋に入ると、年のいった次女が、いつもと変わらぬ淡々とした仕種で頭を下げて退出した。根日女が二歳になった頃からきょうまで根日女の傍で律儀に仕えつづける老女だった。
「…こ、これは…おとうさま……」
根日女はおのがままならぬわずらいの身体をしきりに起こそうとする。
「そのまま。そのままでよい、根日女よ」
許麻は慌て狼狽えて膝を落とすと、根日女の背にそーっと手を当て、静かに元の姿勢に寝かせた。
「……申し訳ありませぬ…おとうさま……」
消え入るような声だった。許麻は点を仰いだ。昔はあのように麗しくて愛らしい天女の声をかくありやといったものだったのに。許麻は父親として切ない思いをまたしても噛み締めながら、目をそらせて何度も、何度も頷いた。
「きょうは気持ちのいい日だ。うーん。春が、もうそこまでやってきておる」
許麻は差しさわりのない話題を選んで喋ることになれてしまった。根日女が病床に伏してから、それだけ長い時が過ぎた証拠だった。
「春になれば、そなたの病も、またよくなろう」
気休めの言葉に過ぎぬのは、父である許麻が一番よく判っていた。根日女の命は決して春まで持ちはしないだろう。 (続く)
(おーる文芸誌・独楽1995年3月掲載)