許麻は気配を抑えて根日女の寝顔をそっと窺った。やはり絶望感に襲われる。すべてがあまりにも遅かった。娘は都から来るであろう愛の使者の訪れを、待ち草臥れた果てに明日をも知れぬ病床にあった。
「オケノミコさまが、大王さまのお言葉を携えて参られた由、申されております。
「なんと、オケノミコさまが自ら参られておるのか……!」
すると巷の噂通り、新しい大王に即位されたのは、弟皇子のワケだったのだ。知的で華奢な趣のあった兄のオケと違って、血気盛んな若い武人だったヲケは、後輩の極みにあった大和の秩序を再度取り戻そうと、勇ましく戦の先陣に立ち、多大な武勲を打ち立てたに違いない。物静かな気性のオケは、兄の立場からいけばおのれが際に就くべき大王の座を、無類の功労を重ねた弟に喜んで譲ったであろうことは想像に難くない。
バタバタと足音が屋形内に響いた。
「これ、そなたは、根日女のそばに!」
許麻は侍女を根日女の寝所へやらせると、縁先から土間に急いで下りた。たとえ何者であろうと、いま寝所で寝入る哀れ見苦しい姿を、他人の目に曝させるなど断じて出来ない。
足音の主は、やはり予想通りオケノミコだった。根日女があれほど待ち焦がれた相手だというのに、いまその貴公子を前にして許麻は強い戸惑いを禁じ得なかった。
「大和の都に出立したあの日、固く誓った通り、そなたの娘、われら兄弟の愛する根日女を、こうして迎えに参ったのだ!」
「……オケノミコさま……」
「根日女はどこだ?どこにおるのじゃ、根日女は!
オケが感極まって大声で呼ばわった。気品がいや増した顔付きが、許麻に迫る。
「お待ちくださいませ、オケノミコさま……」
「いや、もう待てん。根日女はどこだ?」
「!……」
その時だった。
「あーっ!根日女様―!」
侍女の驚愕の叫び声に、許麻は娘根日女の目覚めを知った。根日女がオケノミコの声を忘れようはずがない。オケの声は根日女に届いたのだ!
「根日女?根日女は、そこにあるのか!」
オケノミコは歓喜の表情を見せて、激しく許麻を押しのけかけた。許麻はオケをとどまらせるのに力を込めた。
「お待ちを!しばしお待ちを、オケノミコさま…しばし!」
「?」
きっぱりと制する許麻の迫力の前にオケの動きは止まった。
「あっ!根日女様!ああーっ!根日女様―!お屋形様、根日女様が、根日目さまが……!」
侍女の悲鳴と絶叫に、許麻は悟った。根日女の生命の炎が燃え尽きたことを。根日女は、オケの声を聴き、ようやく神の御手にその魂を委ねたのだ。
娘、根日女はオケの来訪を知り、愛をひたすら信じて生きた、果てのない耐え忍んだ日々が、決して根日女を裏切らなかったことを知ったのだ。その刹那、根日女はようやく運命から解放されて、あの母のもとに旅立ったのだ。許麻を、賀茂の民人を、オケをヲケを、そして賀茂の大地を、根日女が生涯愛し続け来たすべてから解放されて、母のもとに旅立ったのだ。
「根日女は……?」
訝しげに問うオケノミコを遮るために仁王立ちする父、許麻の目からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。 (完結)
(おーる文芸誌・独楽1995年3月掲載)
「オケノミコさまが、大王さまのお言葉を携えて参られた由、申されております。
「なんと、オケノミコさまが自ら参られておるのか……!」
すると巷の噂通り、新しい大王に即位されたのは、弟皇子のワケだったのだ。知的で華奢な趣のあった兄のオケと違って、血気盛んな若い武人だったヲケは、後輩の極みにあった大和の秩序を再度取り戻そうと、勇ましく戦の先陣に立ち、多大な武勲を打ち立てたに違いない。物静かな気性のオケは、兄の立場からいけばおのれが際に就くべき大王の座を、無類の功労を重ねた弟に喜んで譲ったであろうことは想像に難くない。
バタバタと足音が屋形内に響いた。
「これ、そなたは、根日女のそばに!」
許麻は侍女を根日女の寝所へやらせると、縁先から土間に急いで下りた。たとえ何者であろうと、いま寝所で寝入る哀れ見苦しい姿を、他人の目に曝させるなど断じて出来ない。
足音の主は、やはり予想通りオケノミコだった。根日女があれほど待ち焦がれた相手だというのに、いまその貴公子を前にして許麻は強い戸惑いを禁じ得なかった。
「大和の都に出立したあの日、固く誓った通り、そなたの娘、われら兄弟の愛する根日女を、こうして迎えに参ったのだ!」
「……オケノミコさま……」
「根日女はどこだ?どこにおるのじゃ、根日女は!
オケが感極まって大声で呼ばわった。気品がいや増した顔付きが、許麻に迫る。
「お待ちくださいませ、オケノミコさま……」
「いや、もう待てん。根日女はどこだ?」
「!……」
その時だった。
「あーっ!根日女様―!」
侍女の驚愕の叫び声に、許麻は娘根日女の目覚めを知った。根日女がオケノミコの声を忘れようはずがない。オケの声は根日女に届いたのだ!
「根日女?根日女は、そこにあるのか!」
オケノミコは歓喜の表情を見せて、激しく許麻を押しのけかけた。許麻はオケをとどまらせるのに力を込めた。
「お待ちを!しばしお待ちを、オケノミコさま…しばし!」
「?」
きっぱりと制する許麻の迫力の前にオケの動きは止まった。
「あっ!根日女様!ああーっ!根日女様―!お屋形様、根日女様が、根日目さまが……!」
侍女の悲鳴と絶叫に、許麻は悟った。根日女の生命の炎が燃え尽きたことを。根日女は、オケの声を聴き、ようやく神の御手にその魂を委ねたのだ。
娘、根日女はオケの来訪を知り、愛をひたすら信じて生きた、果てのない耐え忍んだ日々が、決して根日女を裏切らなかったことを知ったのだ。その刹那、根日女はようやく運命から解放されて、あの母のもとに旅立ったのだ。許麻を、賀茂の民人を、オケをヲケを、そして賀茂の大地を、根日女が生涯愛し続け来たすべてから解放されて、母のもとに旅立ったのだ。
「根日女は……?」
訝しげに問うオケノミコを遮るために仁王立ちする父、許麻の目からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。 (完結)
(おーる文芸誌・独楽1995年3月掲載)