不調でやる気がでてこない。仕方がない。また昔の原稿の出番でご容赦を願います。
「怠け心の芽生え朝」
朝起きた時から、どうも気分が滅入って仕方がない。月曜日の朝は、いつもこんな具合だ。トイレを済ませるころには、何とか出勤する気になった。
S駅でギュウギュウ詰めの列車に押し込まれた。祐介の気分は一層滅入った。どうも人混みは苦手だった。姫路駅に着くとたまらず駅頭のベンチに尻を落とした。頭の芯が痛み気分は最悪だった。吐き気すら覚える。
祐介はぼんやりと人の流れを見た。通勤の波が狭い改札口に殺到している。祐介は目を閉じて、イヤイヤでもするように頭を振った。スーッと奈落の底へ落ち込む感じで目を閉じた。グッタリと、まるで酔っ払いである。九時十五分前だった。このままでは間違いなく遅刻する。
祐介はフラッと立ち上がった。夢遊病者みたいな足取りで、祐介は東出口に回った。人影は見当たらない。祐介はなぜかホッとした。今度は足が前に踏み出せなくなった。
祐介は近くの電話ボックスに入った。これまでに外から職場に電話を入れたのは二度しかない。その二度の電話はつい最近で、やはり今朝と同じ月曜日、憂鬱な気分で迎えた朝だった。
「あの、済んませんけど、仕事遅れます」
見えない相手だが殊更ペコペコと頭を下げた。
「ちょっと足…捻挫しちゃって、病院に回ってから仕事に入ります」
捻挫は口から出任せ。えらくスラスラと口から出た。
午前中は姫路城城内公園のベンチでボヤーッと過ごした。結局、仕事に出たのは昼過ぎになった。同僚が捻挫を心配して、声をかけてくれるのに、えらく焦った。
同じような顛末が二度続いた。
三度目の正直になる。受話器を握る手が小刻みに震えているのは、小心者のあかしだった。祐介は気後れする自分を鼓舞しながら電話をかけた。
「はい、清流倶楽部ですが」
職場はすぐにつながって、例の事務員の、苦々しい程事務的で明るい声が応じた。まだ二十歳になったばかりの事務員は、まさしく青春を謳歌していた。五時になると、同僚がいかに残業で追いまくられていようとも、些かの躊躇もせずに脱兎の如く職場を出る。以前、盛り場で見かけた彼は、身なりのいい美人と手を繋ぎあって歩いていた。他にもかなり発展している彼女がいるらしかった。
「あの、矢島です。今日休ませて貰いたいんですが。はあ、田舎の方で不幸がありまして。いえ、伯父なんですが」 (続く)
素奥歯の誰かの家族に不幸があれば、会社からそれなりの弔慰金が出ることになっているが、伯父、甥なら対象にはならない。だから反射的に伯父を殺すはめになった。伯父が知ったら、頭から湯気を出して怒るだろう。殺されても死なないようなゴツイ伯父の顔が、祐介の頭に浮かんだ。
「それはどうも、ご愁傷さまです。はい、専務の方にはちゃんと連絡しときますので」
「よろしく頼んます」
ガチャッと受話器を引っ搔けると同時に、祐介の内部にみるみる解放感が広がった。さっきまでのどんよりした気怠さが嘘みたいにかき消えた。事実、嘘だったに違いなかった。
祐介の足は自然と、いつもの駅前の喫茶店に向かった。グランド喫茶の肩書通り、店内はかなり広かった。いつもと一時間ぐらいの時差なのに、混み方も客層もガラリと変わっているのが、ちょっとした驚きだった。祐介の指定席は幸運にも空いていた。別の席でも一向に構わないのだが、不思議と落ち着けないのは、前に一度、掟破りのフリーの客に指定席を奪われた時に体験済みだった。祐介は新聞ラックから、朝刊三紙と、スポーツ紙一紙を取り上げてテーブルに着いた。今朝は、ゆっくり新聞が読める。いつもの十分間では、珈琲カップをせわしく口に運びながら、空いている片手でピッピッと性急にめくり、紙面に目を走らせるのが精一杯だった。せいぜい一紙の政治面から社会面、テレビ欄まで走り読みして間㎜属する時間でしかなかった。
「今朝はゆっくりなんですね?」
顔馴染みのウェートレスがおしぼりと水の入ったグラスをテーブルに置きながら声をかけた。顔馴染みだといっても、私的な会話を、そうしょっちゅうするわけではなかった。今朝のを含めれば、これまで三度ぐらいのものである。
「おはようございます」
とオーダーを取りに来る彼女に軽く会釈して見せるだけのコミニュケーションが殆どだった。ちょっとふくよかな体型で、スマートには程遠い女の子だったが、祐介は彼女の醸し出す田舎っぽさに好感を持っていた。彼女の底のなさそうな笑顔が、祐介の胸をときめかしさえした。それでも、十分間の逢瀬(?)は、名公的な性格の祐介の持ち時間としては、余りに短かった。
「お休みなんですか?」
最初の質問にドギマギしているうちに、彼女は更に訊いた。朝のピークタイムが終わった後だけに、ゆっくりした対応だった。
「ええ、まあ」
祐介はやっと、それだけ答えた。
「いつものでいいですか?」
「はい、お願いします」
せっかくのコミニュケーションを深めるチャンスがついえ去った。ウェイトレスは笑顔を残してさっさと立ち去った。よく突き出た尻が格好よくスカートに包まれて、右に左に揺れて遠ざかるのに、祐介はしばし見惚れた。珈琲とモーニングセットの皿を彼女が運んで来た時、祐介はスポーツ新聞の大相撲の記事に神経を奪われ、目の前にそれが置かれるまで迂闊にも気付かずにいた。
「ありがとう」
祐介は消え入りそうな声で慌てて礼をいったが、既に役割を終えた彼女は、こちらに背中を向けていた。遠ざかる魅力的な彼女の尻は、もう祐介とは無関係にリズミカルな揺れをを見せているだけだった。祐介はゆっくりと珈琲を味わい、新聞の隅から隅まで目を通すつもりでいた。それは、毎朝時間に追われ続ける祐介のささやかな願望である。どう考えても時間が自分の自由になるなんて不可能だった。その時間が今はどうにでもしてくれと、祐介に身を任せて来ていた。じっくりと料理すればいいだけだった。祐介は十分もせぬうちに尻が落ち着かなくなった。思惑に反して、どんどん居心地が悪くなるばかりだった。珈琲をじっくりと口に含んで味わおうとしているのに、口に入った珈琲は喉へ直行してしまい、みるみる間に白い肉厚の珈琲カップの中身は底を見せた。珍しくモーニングセットのトーストを平らげるべく手をつけたが、それも時間稼ぎにはならなかった。ゆで玉子すら、あっさりと殻は剥けすぐに胃の腑へ収まってしまった。新聞は、いざ落ち着いて読もうとしても、そう簡単に習慣づいたことは改まらないもので、せっかちにピッピッとめくっているちに、もう興味のある記事はひとつもなくなった。新聞を抛り出すと、椅子の背に身体を押し付けて、落ち着かぬ視線を店内に遊ばせた。また客層が変わっていた。主婦らしい女たちの姿が目立っている。集金袋をテーブルに投げ出したブローカー然とした男が、シーシーと歯を穿っていた。風体の定まらぬ連中もあちこちに見える。階下にあるパチンコ屋の開店を待っているのだ。 (続く)
「この新聞、あいてまっか?」
隣に座っていた中年の男が無遠慮に手を突き出して訊いた。判事も待たず、男はすかさず手をグイッと伸ばし新聞を鷲掴みしていた。祐介は伝票を掴むと立ち上がった。もう自分がいていい時間のエリアはとっくに過ぎていた。これ以上、長っ尻でおれる図々しさを持ち合わせていなかった。
「ありがとうございました。またどうぞ」定番のレジ係の言葉に送られて店の外へ出ると、祐介はなぜかホッとした。淀んだ空気から、漸く解放された思いがあった。エスカレーターを降り切った所で、階下のパチンコ屋の開店時間を待ちきれず、たむろした男や女が賑やかしく列を作っていた。
祐介は自分のいる場所を探しあぐねた格好で結局姫路駅に戻った。駅のど真ん中に居場所を確保している、丸くて大きい時計が目に入った。チッチッと秒針は動き続けていた。仕事を休むと決めて得られた解放感に浸った、あの時間からまだ一時間も経っていないのを確かめて、祐介は思わずため息をついた。時間手奴は、なんて思い通りにならないヤツなんだ、と小憎らしかった。きのうの日曜日は家でゴロゴロして過ごしたが、その時間はアッと言う間に終わった。今朝は身勝手な手段で手に入れた休日だが、やはり同じように過ぎてしまいそうな予感があった。祐介はまた憂鬱な気分に襲われた。どこかに祐介が自由な時間を満喫出来る場所があるなどとは到底思えない。大体、休日に家を離れて遠出するなど、まるで無縁の祐介に、それは最初から無理な相談だった。祐介は財布の中身を調べた。給料を貰ってまだ二週間、そんなに減ってはいなかった。給料の半分は家に入れて、後の半分は小遣いである。それとて恋人もいないいない祐介に余り使い道はなかった。他人に生真面目と見られるように、祐介は遊びや買い物、グルメみたいなものとは皆目縁のない、寂しい若者だった。
いきなり、京都へ行こうと思い付いた。唐突だったが、前に職場の同僚が得意気に喋っていた、太秦の映画村に行きたくなった。無駄に一日を送るぐらいなら、思い切って京都に行ってみよう。何かがあるかも知れない。祐介は初めて目的を持った。胸はドキドキと、期待と不安がないまぜになった鼓動を打った。
窓口で京都までの往復切符を買った。駅員が訝るように覗いている気がして、祐介は身を固くしたが、それは祐介の思い過ごしでしかなかった。駅員はさも退屈そうに生欠伸を繰り返しながら切符を発行した。
京都は祐介の期待を裏切った。別に京都に罪があったわけではなく、祐介自身がそう思い込む原因を抱えていたからである。太秦の映画村は、そう問題なく行き着いたのだが、バスに乗っても、映画村を歩いても、、どこに行こうと、やはり祐介は全くの一人ぼっちだった。それで面白いようだったら、元より人間は群れて社会を構成する必要などない証明になる。自由は人間の夢や願望であっても、所詮一人で生きていけない脆弱な本性が現実の人間だった。祐介は、そんな人間のひとりである。
祐介は映画村をひと回りもしないうちに踵を返した。とにかく詰まらなかった。賑わいはそれ相応にあるだけに、祐介の孤独感は一層募るのだった。半年前に職場の慰安旅行でで京都を訪れた時は、それでも結構楽しかった記憶が残っている。ミヤコホテルで食事をした。幸せな気分でご馳走に箸を運ばせたのも憶えている。同じ京都なのに、一体何が違うのか?そうだ。あの時はみんんがいた。祐介の頭に次々と、職場の気心が知れた連中の顔が浮かんだ。あの若い事務員も、いつも祐介に笑いかけてくれた。職場をまとめる専務のどこか間延びして見える顔も浮かんだ。
祐介はバスに急いだ。太秦を後にした。京都駅に辿り着くと、そのまま快速電車に乗り込んだ。
京都にやって来る途中、京都へ近づくに伴い、白けた気分がいや増したものだったが、姫路へ帰る今はちょうど逆転した形で、不思議に鼻歌を口ずさみたい程、気分が高揚した。
姫路駅に着くと、祐介はとたんに空腹を覚えて、地下街にある大衆中華料理店に飛び込んだ。よく利用する店だった。ホッとした。腹拵えが出来て人心地がつくと、祐介は店の油にまみれた汚らしい風情の時計を見上げた。職場の就業時間になっていた。
嘘で手にした臨時の休日は、もう終わろうとしていた。長かったようで短かった、祐介の虚構の一日は、結局はかなく終わりを向かえ阿多のである。
しかし、無駄ではなかったと、祐介は思う。いつまでとは定かではないが、憂鬱な月曜日の訪れは、ここ暫らくはなくなるだろう。それでも再び憂鬱な朝がやって来ようものなら、今日と同じ無為な休日を送ればよいではないか。祐介は、思わず苦笑した。
「ふるさと川柳公募」3作品もアップ。
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「怠け心の芽生え朝」
朝起きた時から、どうも気分が滅入って仕方がない。月曜日の朝は、いつもこんな具合だ。トイレを済ませるころには、何とか出勤する気になった。
S駅でギュウギュウ詰めの列車に押し込まれた。祐介の気分は一層滅入った。どうも人混みは苦手だった。姫路駅に着くとたまらず駅頭のベンチに尻を落とした。頭の芯が痛み気分は最悪だった。吐き気すら覚える。
祐介はぼんやりと人の流れを見た。通勤の波が狭い改札口に殺到している。祐介は目を閉じて、イヤイヤでもするように頭を振った。スーッと奈落の底へ落ち込む感じで目を閉じた。グッタリと、まるで酔っ払いである。九時十五分前だった。このままでは間違いなく遅刻する。
祐介はフラッと立ち上がった。夢遊病者みたいな足取りで、祐介は東出口に回った。人影は見当たらない。祐介はなぜかホッとした。今度は足が前に踏み出せなくなった。
祐介は近くの電話ボックスに入った。これまでに外から職場に電話を入れたのは二度しかない。その二度の電話はつい最近で、やはり今朝と同じ月曜日、憂鬱な気分で迎えた朝だった。
「あの、済んませんけど、仕事遅れます」
見えない相手だが殊更ペコペコと頭を下げた。
「ちょっと足…捻挫しちゃって、病院に回ってから仕事に入ります」
捻挫は口から出任せ。えらくスラスラと口から出た。
午前中は姫路城城内公園のベンチでボヤーッと過ごした。結局、仕事に出たのは昼過ぎになった。同僚が捻挫を心配して、声をかけてくれるのに、えらく焦った。
同じような顛末が二度続いた。
三度目の正直になる。受話器を握る手が小刻みに震えているのは、小心者のあかしだった。祐介は気後れする自分を鼓舞しながら電話をかけた。
「はい、清流倶楽部ですが」
職場はすぐにつながって、例の事務員の、苦々しい程事務的で明るい声が応じた。まだ二十歳になったばかりの事務員は、まさしく青春を謳歌していた。五時になると、同僚がいかに残業で追いまくられていようとも、些かの躊躇もせずに脱兎の如く職場を出る。以前、盛り場で見かけた彼は、身なりのいい美人と手を繋ぎあって歩いていた。他にもかなり発展している彼女がいるらしかった。
「あの、矢島です。今日休ませて貰いたいんですが。はあ、田舎の方で不幸がありまして。いえ、伯父なんですが」 (続く)
素奥歯の誰かの家族に不幸があれば、会社からそれなりの弔慰金が出ることになっているが、伯父、甥なら対象にはならない。だから反射的に伯父を殺すはめになった。伯父が知ったら、頭から湯気を出して怒るだろう。殺されても死なないようなゴツイ伯父の顔が、祐介の頭に浮かんだ。
「それはどうも、ご愁傷さまです。はい、専務の方にはちゃんと連絡しときますので」
「よろしく頼んます」
ガチャッと受話器を引っ搔けると同時に、祐介の内部にみるみる解放感が広がった。さっきまでのどんよりした気怠さが嘘みたいにかき消えた。事実、嘘だったに違いなかった。
祐介の足は自然と、いつもの駅前の喫茶店に向かった。グランド喫茶の肩書通り、店内はかなり広かった。いつもと一時間ぐらいの時差なのに、混み方も客層もガラリと変わっているのが、ちょっとした驚きだった。祐介の指定席は幸運にも空いていた。別の席でも一向に構わないのだが、不思議と落ち着けないのは、前に一度、掟破りのフリーの客に指定席を奪われた時に体験済みだった。祐介は新聞ラックから、朝刊三紙と、スポーツ紙一紙を取り上げてテーブルに着いた。今朝は、ゆっくり新聞が読める。いつもの十分間では、珈琲カップをせわしく口に運びながら、空いている片手でピッピッと性急にめくり、紙面に目を走らせるのが精一杯だった。せいぜい一紙の政治面から社会面、テレビ欄まで走り読みして間㎜属する時間でしかなかった。
「今朝はゆっくりなんですね?」
顔馴染みのウェートレスがおしぼりと水の入ったグラスをテーブルに置きながら声をかけた。顔馴染みだといっても、私的な会話を、そうしょっちゅうするわけではなかった。今朝のを含めれば、これまで三度ぐらいのものである。
「おはようございます」
とオーダーを取りに来る彼女に軽く会釈して見せるだけのコミニュケーションが殆どだった。ちょっとふくよかな体型で、スマートには程遠い女の子だったが、祐介は彼女の醸し出す田舎っぽさに好感を持っていた。彼女の底のなさそうな笑顔が、祐介の胸をときめかしさえした。それでも、十分間の逢瀬(?)は、名公的な性格の祐介の持ち時間としては、余りに短かった。
「お休みなんですか?」
最初の質問にドギマギしているうちに、彼女は更に訊いた。朝のピークタイムが終わった後だけに、ゆっくりした対応だった。
「ええ、まあ」
祐介はやっと、それだけ答えた。
「いつものでいいですか?」
「はい、お願いします」
せっかくのコミニュケーションを深めるチャンスがついえ去った。ウェイトレスは笑顔を残してさっさと立ち去った。よく突き出た尻が格好よくスカートに包まれて、右に左に揺れて遠ざかるのに、祐介はしばし見惚れた。珈琲とモーニングセットの皿を彼女が運んで来た時、祐介はスポーツ新聞の大相撲の記事に神経を奪われ、目の前にそれが置かれるまで迂闊にも気付かずにいた。
「ありがとう」
祐介は消え入りそうな声で慌てて礼をいったが、既に役割を終えた彼女は、こちらに背中を向けていた。遠ざかる魅力的な彼女の尻は、もう祐介とは無関係にリズミカルな揺れをを見せているだけだった。祐介はゆっくりと珈琲を味わい、新聞の隅から隅まで目を通すつもりでいた。それは、毎朝時間に追われ続ける祐介のささやかな願望である。どう考えても時間が自分の自由になるなんて不可能だった。その時間が今はどうにでもしてくれと、祐介に身を任せて来ていた。じっくりと料理すればいいだけだった。祐介は十分もせぬうちに尻が落ち着かなくなった。思惑に反して、どんどん居心地が悪くなるばかりだった。珈琲をじっくりと口に含んで味わおうとしているのに、口に入った珈琲は喉へ直行してしまい、みるみる間に白い肉厚の珈琲カップの中身は底を見せた。珍しくモーニングセットのトーストを平らげるべく手をつけたが、それも時間稼ぎにはならなかった。ゆで玉子すら、あっさりと殻は剥けすぐに胃の腑へ収まってしまった。新聞は、いざ落ち着いて読もうとしても、そう簡単に習慣づいたことは改まらないもので、せっかちにピッピッとめくっているちに、もう興味のある記事はひとつもなくなった。新聞を抛り出すと、椅子の背に身体を押し付けて、落ち着かぬ視線を店内に遊ばせた。また客層が変わっていた。主婦らしい女たちの姿が目立っている。集金袋をテーブルに投げ出したブローカー然とした男が、シーシーと歯を穿っていた。風体の定まらぬ連中もあちこちに見える。階下にあるパチンコ屋の開店を待っているのだ。 (続く)
「この新聞、あいてまっか?」
隣に座っていた中年の男が無遠慮に手を突き出して訊いた。判事も待たず、男はすかさず手をグイッと伸ばし新聞を鷲掴みしていた。祐介は伝票を掴むと立ち上がった。もう自分がいていい時間のエリアはとっくに過ぎていた。これ以上、長っ尻でおれる図々しさを持ち合わせていなかった。
「ありがとうございました。またどうぞ」定番のレジ係の言葉に送られて店の外へ出ると、祐介はなぜかホッとした。淀んだ空気から、漸く解放された思いがあった。エスカレーターを降り切った所で、階下のパチンコ屋の開店時間を待ちきれず、たむろした男や女が賑やかしく列を作っていた。
祐介は自分のいる場所を探しあぐねた格好で結局姫路駅に戻った。駅のど真ん中に居場所を確保している、丸くて大きい時計が目に入った。チッチッと秒針は動き続けていた。仕事を休むと決めて得られた解放感に浸った、あの時間からまだ一時間も経っていないのを確かめて、祐介は思わずため息をついた。時間手奴は、なんて思い通りにならないヤツなんだ、と小憎らしかった。きのうの日曜日は家でゴロゴロして過ごしたが、その時間はアッと言う間に終わった。今朝は身勝手な手段で手に入れた休日だが、やはり同じように過ぎてしまいそうな予感があった。祐介はまた憂鬱な気分に襲われた。どこかに祐介が自由な時間を満喫出来る場所があるなどとは到底思えない。大体、休日に家を離れて遠出するなど、まるで無縁の祐介に、それは最初から無理な相談だった。祐介は財布の中身を調べた。給料を貰ってまだ二週間、そんなに減ってはいなかった。給料の半分は家に入れて、後の半分は小遣いである。それとて恋人もいないいない祐介に余り使い道はなかった。他人に生真面目と見られるように、祐介は遊びや買い物、グルメみたいなものとは皆目縁のない、寂しい若者だった。
いきなり、京都へ行こうと思い付いた。唐突だったが、前に職場の同僚が得意気に喋っていた、太秦の映画村に行きたくなった。無駄に一日を送るぐらいなら、思い切って京都に行ってみよう。何かがあるかも知れない。祐介は初めて目的を持った。胸はドキドキと、期待と不安がないまぜになった鼓動を打った。
窓口で京都までの往復切符を買った。駅員が訝るように覗いている気がして、祐介は身を固くしたが、それは祐介の思い過ごしでしかなかった。駅員はさも退屈そうに生欠伸を繰り返しながら切符を発行した。
京都は祐介の期待を裏切った。別に京都に罪があったわけではなく、祐介自身がそう思い込む原因を抱えていたからである。太秦の映画村は、そう問題なく行き着いたのだが、バスに乗っても、映画村を歩いても、、どこに行こうと、やはり祐介は全くの一人ぼっちだった。それで面白いようだったら、元より人間は群れて社会を構成する必要などない証明になる。自由は人間の夢や願望であっても、所詮一人で生きていけない脆弱な本性が現実の人間だった。祐介は、そんな人間のひとりである。
祐介は映画村をひと回りもしないうちに踵を返した。とにかく詰まらなかった。賑わいはそれ相応にあるだけに、祐介の孤独感は一層募るのだった。半年前に職場の慰安旅行でで京都を訪れた時は、それでも結構楽しかった記憶が残っている。ミヤコホテルで食事をした。幸せな気分でご馳走に箸を運ばせたのも憶えている。同じ京都なのに、一体何が違うのか?そうだ。あの時はみんんがいた。祐介の頭に次々と、職場の気心が知れた連中の顔が浮かんだ。あの若い事務員も、いつも祐介に笑いかけてくれた。職場をまとめる専務のどこか間延びして見える顔も浮かんだ。
祐介はバスに急いだ。太秦を後にした。京都駅に辿り着くと、そのまま快速電車に乗り込んだ。
京都にやって来る途中、京都へ近づくに伴い、白けた気分がいや増したものだったが、姫路へ帰る今はちょうど逆転した形で、不思議に鼻歌を口ずさみたい程、気分が高揚した。
姫路駅に着くと、祐介はとたんに空腹を覚えて、地下街にある大衆中華料理店に飛び込んだ。よく利用する店だった。ホッとした。腹拵えが出来て人心地がつくと、祐介は店の油にまみれた汚らしい風情の時計を見上げた。職場の就業時間になっていた。
嘘で手にした臨時の休日は、もう終わろうとしていた。長かったようで短かった、祐介の虚構の一日は、結局はかなく終わりを向かえ阿多のである。
しかし、無駄ではなかったと、祐介は思う。いつまでとは定かではないが、憂鬱な月曜日の訪れは、ここ暫らくはなくなるだろう。それでも再び憂鬱な朝がやって来ようものなら、今日と同じ無為な休日を送ればよいではないか。祐介は、思わず苦笑した。
「ふるさと川柳公募」3作品もアップ。
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