草刈りでダウン寸前。
といっても、
まだまだやらなきゃいけない畑仕事。
ちょっと手抜きで過去の原稿をアップ。
高校を卒業して得た仕事は書店の店売員。本好きで深い考えもなく選んだ仕事だった。
店売の仕事は多岐に渡った。店頭で商品棚の整理や注文補充、納品と返本作業など本好きには楽しめる仕事の中に、人見知りな性格の私には、きつ過ぎる仕事があった。
お客さんとじかに接する本の販売だった。百科事典や婦人誌の新年号に新一年生の学年誌などは売り上げノルマがあり、否が応でも販売の最前線に立たなければならなかった。
客を相手に売り込むのに四苦八苦しても、うまくいかない。いつもノルマの数量を自分で抱え込むはめに陥った。購入金額はかなりな額で、人知れず頭を抱えた。
(こんなはずじゃなかった!)ジレンマから抜け出せずストレスになって容赦なく襲いかかった。通勤拒否が重なり、結局退職した。
一年も続かなかったことが両親に申し訳なくて、家に閉じこもってしまった。
「調理の勉強してみやへんか?」
閉じこもり状態の私を見るに見かねた両親は、調理師学校で学べるよう手配してくれた。
「よう飯作りの手伝いしてくれてたやろ。料理の勉強したら、店を出したるわ」
農家の息子で、小学生になると農繁期は忙しい家族のために食事を作った。結構楽しみながらやっていたのを、両親は覚えていた。当時郊外型飲食店が注目されていて、県道わきに所有する土地に息子の店を出してやろうと思いついたらしかった。
やることが見つからず悶々と暮らしていた私は、結局両親が敷いた路線に乗っかるしか道はなかった。内心は(なんで今更調理師学校行かなあかんねん)と不満を覚えたが、親に逆らう負けん気を持ち合わせていなかった。
調理師学校同期の仲間は、中卒から定年を迎えた社会人まで年齢も性別もバラエティに富んでいた。料理人への夢に前向きの仲間と違い、ひとり浮いた存在になってしまった私。
「料理するんが嫌いやったら辞めたらええねん。お金と時間の無駄使いせんときや」
調理実習担当のМ先生にきつい小言を受けたのは、実習に身が入らなかったからだった。
「義務教育と違う。ここは料理のプロを養成するとこやで。その気がないもんは、ほかの仲間には邪魔になるだけや」
容赦ないМ先生の言葉は間違っていない。弁解もできず伏せた頭は上げられなかった。
するとМ先生は急に笑った。意表を突かれて顔を上げると、М先生は照れながら言った。
「えらそうなこと言うとるな、わし。勉強に熱が入らないんは、先生の教え方が悪いからやな。どないや。もう一遍やる気にならんか?先生にもチャンスくれや。ほかの仲間と一緒に、ちゃんとしたプロに育てたるさかい」
М先生の顔は真剣そのものに変わっていた。
「わしなあ。自慢やないけど勉強苦手でなあ。社会に出てもどんな仕事かて長続きせなんだんや。そないな時に出会ったんが料理の世界やったわ。ホテルに就職したんは、そらええ加減な気持ちやったけど、辛抱しているうちに、なんか違うのんが分かった。どないしんどうても苦にならへんのやで。君に無理強いできんけど、もうちょっとやってみたらどないや。なにかが手にいれられるぞ。それに先生がとことん力貸したる。後悔はさせへんで」
飾らないМ先生の言葉は、私の心に響いた。「先生を信じてみよう、料理の仕事に賭けてみよう」そんな気になった。
前向きになると、これまで気にもならなかった、同じ調理師を志す仲間に興味が湧いた。
「僕は頭が悪いさかい、この道で頑張るしかないねん」中卒の若者は純粋だった。
「第二の人生、やりたいことを叶えるんや」
定年退職した彼は、ロマンに燃えていた。
「女かて一人前の料理人になれるはずやもん」
ウェートレスだった若い女性は、顔を輝かせて決意を語った。みんな燃えていた。
「君らの夢、叶えたるさけ先生に任しとけ」
М先生はみんなに胸をたたいて見せた。
やる気が出たら、勉強は面白くなった。人見知りなど無関係な仕事だし、いろんな食材を自分の腕一本で調理できるのが楽しかった。
調理師学校の卒業時、就職探しに直面した。すぐ独立して自分の店を持てるはずもなく、飲食店現場の体験は必須だったが、人見知りな性格は面接にマイナスとなり、なかなか職場が決まらず焦りは募る一方だった。
「ええとこあったで。商工会議所の中のレストランや。勉強するんに持ってこいやがな」
М先生は仕事先を探してくれていた。
「大事な教え子に変な職場押しつけられへん。後は本人次第や。プロの料理人になって先生を喜ばしてくれたら、最高の幸せやさかいな」
М先生は臆面もなく言い放った。
四十年近く続けた調理師の仕事。М先生の教え通り、やった分の見返りを得た。プロの料理人としての誇りもしっかりと身に付いた。
М先生に指導を受けていなければ、調理師サイトウは夢のまた夢に終わっていただろう。
「ふるさと川柳公募」は3作品です。
といっても、
まだまだやらなきゃいけない畑仕事。
ちょっと手抜きで過去の原稿をアップ。
高校を卒業して得た仕事は書店の店売員。本好きで深い考えもなく選んだ仕事だった。
店売の仕事は多岐に渡った。店頭で商品棚の整理や注文補充、納品と返本作業など本好きには楽しめる仕事の中に、人見知りな性格の私には、きつ過ぎる仕事があった。
お客さんとじかに接する本の販売だった。百科事典や婦人誌の新年号に新一年生の学年誌などは売り上げノルマがあり、否が応でも販売の最前線に立たなければならなかった。
客を相手に売り込むのに四苦八苦しても、うまくいかない。いつもノルマの数量を自分で抱え込むはめに陥った。購入金額はかなりな額で、人知れず頭を抱えた。
(こんなはずじゃなかった!)ジレンマから抜け出せずストレスになって容赦なく襲いかかった。通勤拒否が重なり、結局退職した。
一年も続かなかったことが両親に申し訳なくて、家に閉じこもってしまった。
「調理の勉強してみやへんか?」
閉じこもり状態の私を見るに見かねた両親は、調理師学校で学べるよう手配してくれた。
「よう飯作りの手伝いしてくれてたやろ。料理の勉強したら、店を出したるわ」
農家の息子で、小学生になると農繁期は忙しい家族のために食事を作った。結構楽しみながらやっていたのを、両親は覚えていた。当時郊外型飲食店が注目されていて、県道わきに所有する土地に息子の店を出してやろうと思いついたらしかった。
やることが見つからず悶々と暮らしていた私は、結局両親が敷いた路線に乗っかるしか道はなかった。内心は(なんで今更調理師学校行かなあかんねん)と不満を覚えたが、親に逆らう負けん気を持ち合わせていなかった。
調理師学校同期の仲間は、中卒から定年を迎えた社会人まで年齢も性別もバラエティに富んでいた。料理人への夢に前向きの仲間と違い、ひとり浮いた存在になってしまった私。
「料理するんが嫌いやったら辞めたらええねん。お金と時間の無駄使いせんときや」
調理実習担当のМ先生にきつい小言を受けたのは、実習に身が入らなかったからだった。
「義務教育と違う。ここは料理のプロを養成するとこやで。その気がないもんは、ほかの仲間には邪魔になるだけや」
容赦ないМ先生の言葉は間違っていない。弁解もできず伏せた頭は上げられなかった。
するとМ先生は急に笑った。意表を突かれて顔を上げると、М先生は照れながら言った。
「えらそうなこと言うとるな、わし。勉強に熱が入らないんは、先生の教え方が悪いからやな。どないや。もう一遍やる気にならんか?先生にもチャンスくれや。ほかの仲間と一緒に、ちゃんとしたプロに育てたるさかい」
М先生の顔は真剣そのものに変わっていた。
「わしなあ。自慢やないけど勉強苦手でなあ。社会に出てもどんな仕事かて長続きせなんだんや。そないな時に出会ったんが料理の世界やったわ。ホテルに就職したんは、そらええ加減な気持ちやったけど、辛抱しているうちに、なんか違うのんが分かった。どないしんどうても苦にならへんのやで。君に無理強いできんけど、もうちょっとやってみたらどないや。なにかが手にいれられるぞ。それに先生がとことん力貸したる。後悔はさせへんで」
飾らないМ先生の言葉は、私の心に響いた。「先生を信じてみよう、料理の仕事に賭けてみよう」そんな気になった。
前向きになると、これまで気にもならなかった、同じ調理師を志す仲間に興味が湧いた。
「僕は頭が悪いさかい、この道で頑張るしかないねん」中卒の若者は純粋だった。
「第二の人生、やりたいことを叶えるんや」
定年退職した彼は、ロマンに燃えていた。
「女かて一人前の料理人になれるはずやもん」
ウェートレスだった若い女性は、顔を輝かせて決意を語った。みんな燃えていた。
「君らの夢、叶えたるさけ先生に任しとけ」
М先生はみんなに胸をたたいて見せた。
やる気が出たら、勉強は面白くなった。人見知りなど無関係な仕事だし、いろんな食材を自分の腕一本で調理できるのが楽しかった。
調理師学校の卒業時、就職探しに直面した。すぐ独立して自分の店を持てるはずもなく、飲食店現場の体験は必須だったが、人見知りな性格は面接にマイナスとなり、なかなか職場が決まらず焦りは募る一方だった。
「ええとこあったで。商工会議所の中のレストランや。勉強するんに持ってこいやがな」
М先生は仕事先を探してくれていた。
「大事な教え子に変な職場押しつけられへん。後は本人次第や。プロの料理人になって先生を喜ばしてくれたら、最高の幸せやさかいな」
М先生は臆面もなく言い放った。
四十年近く続けた調理師の仕事。М先生の教え通り、やった分の見返りを得た。プロの料理人としての誇りもしっかりと身に付いた。
М先生に指導を受けていなければ、調理師サイトウは夢のまた夢に終わっていただろう。
「ふるさと川柳公募」は3作品です。