老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1376;「不自由」からの解放

2020-01-26 05:42:44 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
眼下に水戸市 / 茨城空港まもなく着陸

「不自由」からの解放

自由はかけがえのないもの

封建社会から近代社会へと発展させたものは
「不自由」からの解放
つまり、人間は自由を求め闘ってきた。
しかし、人間は身分差別、職業、住む処などの自由を得た一方、
他方では失業、貧困などを得ることにもなった。


それは現代においても変わりなく
人は仕事を終え、家に帰れば「自由」な時空間が待っている。
自分の家は、何しようと自由である。
他人に気兼ねする必要もなく、自由に手足を伸ばせる。
肘をつき煎餅を齧りながらテレビを見たり
昼近くまで蒲団のなかで寝ていたり
ゆっくりお風呂に浸かったりなど自由である。

人間にとり自由はかけがえのないもの
それは、不自由になってはじめて「自由」のありがたさや尊さがわかる。

自由を奪う「介護」

日々、ベッドで臥床されている寝たきり老人や
認知症老人の介護をなされているご家族にとり
いま欲しておられるのは、
「蒲団に入りぐっすりと眠りたい、ただそれだけ」、という声をよく聞かれる。

気が付けば、小学1年の孫がもう6年になり、6年の介護が経つ。
この先いつまで続くかわからない介護、老いてゆく我が身。
認知症老人を抱える家族もまた深刻である。
時間も家も人の名前・顔も忘れ、忘れたことも忘れ、できないことが増え
手をかけることも増えてくる老人の世話に疲れ果て(疲労困憊)、
ストレスも溜まり、介護者の心は悲鳴寸前に置かれている。

実の親或いは義父母の介護であるだけに
やはり介護は家族が行うべきものだと、
偉い人たちは話される。

介護者にとり介護疲れやストレスが溜まり大変と思うのは、
自分の時間が無くなり、親の介護に時間を奪われている。
介護により「不自由」な状況にある自分。

いつまで続くかわからない介護(=不自由)
自分も齢を重ね老いてゆくのでは、という不安や葛藤。
疲れてくると怒らなくてもいいところで叱ったり怒ったりする自分に
嫌悪し反省したりしてしまう。

介護の「不自由」さから解放されたい

介護が「嫌だ」とか、「したくない」とか、というのではない。
ただ、介護の「不自由」さから解放され、
「ぐっすり眠りたい」「介護を忘れ、ぼんやりとしたい」
「どこかへ行きたい」「お風呂(温泉)に浸かりたい」
そう思いながらも、
終わりのない介護がある、と脳裏をよぎると
それらの望みは無理なことか、とあきらめてしまう。