老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

「家族が息をしていない」と、看取ったのであれば訪問看護師は訪れなくてもいい

2020-08-05 11:11:11 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
1617 生死を見つめる❷ ~「家族が息をしていない」と、看取ったのであれば訪問看護師は訪れなくてもいい・・・~

昨日ことである
11時過ぎ、R訪問看護ステーションの管理者から電話が入った。
「はな様(91歳)の状態が悪い。血圧が70台(上)、SPO2は74の数値にあり、病院に救急搬送した方がよいのか、それとも主治医であるクリニックに受診した方がよいのか」
「主治医であるS医師にしたみた方がいいのでは」と話す。
S医師は「息子がどうしたいのか、入院させたいのか、そのまま点滴など治療もせずそのまま自宅で看取るのか。何かあったときは往診を行う」、と話す。

昼食時ではあったが昼食は摂らず、急遽訪問看護師(管理者)と一緒にはな様宅を訪れた。
再度バイタル測定を行うも状態は変わらず血圧は70台、SPO2は74、脈拍150であった。
次男(67歳)に、どうしたいのか、私はストレートに聴いてみた。
「お袋は、入院は嫌っており、このまま自宅で逝きたい、と望んでいるので、入院はしなくてもいい」
「脱水の症状もあるが、食べることも水を飲むことも難しくなったきた。両足は浮腫み、いま静かに肩で呼吸をしている状態にあり、今夜か明日かな・・・。」
「このまま自宅で看取っていきたい」
「急変のときは電話をください。深夜でも明け方でも遠慮なく携帯電話にかけてください」と、お願いしはな様宅を後にした。

21時25分 携帯電話が鳴った。
はな様の次男からの着信表示で、電話に出ると「息をしていない」、と電話口の向こうから話された。
「いまから、伺います」、と返事をした。
R訪問看護ステーションに電話をし、訪問をお願いしたところ、
「次男が息をしていない、と看取ったのであれば訪問看護は行く必要がない」と言われてしまった。

心肺停止になっている利用者を看ることもなく、また家族の精神的なケアも
訪問看護師の役割があるのでは、と思いながらも
自分は何も言わず「もやもやとしたもの」を飲み込んでしまった。

22時前にははな様宅に到着し、はな様と対面した。
本当に穏やかな表情で、最期は苦しくことなく息を引き取るような感じであの世に逝かれた。
血圧も脈拍もサチュレーションも測定できなかった。

一昨日、次男と長女がリクライニング型車いすに乗せ
自宅の周りを散歩し、風や夏の季節を肌で感じたり
路端や庭に咲いている花を見たりして、笑顔がこぼれていた。

亡くなる前日次男が泪を流していると、はなさんは「泣くな」、「ありがとう」と
息子に言葉をかけたのが最後の言葉だった。

最後に髪を撫でながら「長い間お疲れ様、本当に頑張ったね」と呟き、お別れをした。