阿武隈川
1639 老師と少年❹ ~人間とは何か~
九夜に渡る『老師と少年』の会話は、第三夜に入った。
❹回目は「人間とは何か」について考えたが、自分にとり難解であった感がする。
老師はベッドに横たわっていた。
老師は話す。
「君はある人間がどのように苦しむのかを見るのだ」(41頁)
相手の心をわかろうとするのではなく、苦しみを共感することなのだ。
老師は、幼い頃の出来事を少年に語る(引用が長くなります 42頁)
「私は小川に沿った道を歩いていた。すると、先の方で、ある老人が道ばたに
腰をおろし、片手を小川の中に入れていた。何をしているのかと近づいてみる
と、竹籠に捕らえたネズミを、水に浸けて殺していたのだ。たぶん、家の貯え
でも荒されたのだろう。」
「キーッ、キーッと何かを刺すようにネズミは鳴き、小さく鋭い爪で籠を掻き
むしっていた。私は老人の大きな背中の後ろにたちすくんだまま、ただその音
を聞いていた。
すると、気配を察したのか、突然老人は肩越しに振り返った。そして私の目を
見上げて、顔中の皴を撓(たわ)めて、にやっと笑った」
「そのとき、私のどこかが
裂けた。それまで、どういうこともなかった世界の
何かが、突然
欠けた」
註:青字は筆者が記した
上記の出来事は、幼い頃の老師にとり衝撃的な事であった。
老師は、「私ではない『私』に出会い、そして新しい『世界』が現れた。
その『世界』には、大人という『他人』がいた。
その『他人』は何者か。残虐にネズミを殺せる人であり、その人は『人間』であった。
その出来事から、老師は「人間とは何ですか」(45頁)と問い
「人間とは、裂けたもの、欠けたものだ」とし、「人はそれを探して、苦し」んでいく。
第三夜の最後の行に、老師の言葉がある。
「色々な病み方がある。治りはしないが、生きてはいける。それでいいのだ」(48頁)
自分は多疾患の持ち主であるだけに、この老師の言葉に元気づけられ、胸底に深く滲みた(沁みた)。
人それぞれ色々な病み方があり、治らないけれども、病と仲良く生きていく。
そのことが「欠けた」ことであり、ときには苦しみながら生きていく私なのだ、と。
第三夜は、自分以外の存在である「他人」の世界を知り
残虐にネズミを殺せる「大人」がいて、それは(自分ではない)他人であり、
その人も人間であったことに、「人間とは何か」を考えさせられた。