老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

老いの坂道

2020-08-07 06:00:52 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
1620生死をみつめる ❹ ~老いの坂道~

老いは「下り坂」のように言われるが
自分は老いは、ときには「登り坂」に思うことがある。

自ら躰の向きも変えることができず寝たきりに伏し
去る日も来る日も天井と壁をみながら過ごす老母。

食べることも水を飲むことも 躰は受けつけず、脚は曲がり
大根のように脚は浮腫み、身の置き場がない。
テレビの音にかき消されることもあるが
雨風や息子が台所で水を流す音が聞こえる。
音だけでなく生活の匂いもある。

壁の上には、夫の遺影が目に入り
「もう少しで私も逝くからね」と胸の内で呟く。

蓮如「「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
老いた人も若い人も関係なく、死は誰もが迎えるし起こりえることである。
老人だから先に死ぬ。子どもだから親の後に死ぬとは限らない。
死はいつ、訪れるか、それはわからない。
自分が今日死ぬかもしれない、と思いながら生きている人はいないが、
老い病み、夕には白骨となれる身かもしれず、人生の無常を感じてしまうけれど
「われ閉眼せば賀茂川へ入れて魚にあたうべし」といった親鸞の言葉もいさぎよく、美しい死に思えてくる。

他人の死に 不感症になってはいけない。

「我々はどこから来たか? 我々とは何か? 我々はどこへ行くのか?」
介護は老人の死をもって終焉となる。
介護や医療の現場にあると、死に慣れてしまいがち。
家族にとり、大切な人が亡くなった(いなくなった)、その悼みを共有できるかどうか
一人の老人の死をとおし、「人間とは何か」をみつめていくことにツナガッテいくのでは・・・・。