1620生死をみつめる ❹ ~老いの坂道~
老いは「下り坂」のように言われるが
自分は老いは、ときには「登り坂」に思うことがある。
自ら躰の向きも変えることができず寝たきりに伏し
去る日も来る日も天井と壁をみながら過ごす老母。
食べることも水を飲むことも 躰は受けつけず、脚は曲がり
大根のように脚は浮腫み、身の置き場がない。
テレビの音にかき消されることもあるが
雨風や息子が台所で水を流す音が聞こえる。
音だけでなく生活の匂いもある。
壁の上には、夫の遺影が目に入り
「もう少しで私も逝くからね」と胸の内で呟く。
蓮如「「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
老いた人も若い人も関係なく、死は誰もが迎えるし起こりえることである。
老人だから先に死ぬ。子どもだから親の後に死ぬとは限らない。
死はいつ、訪れるか、それはわからない。
自分が今日死ぬかもしれない、と思いながら生きている人はいないが、
老い病み、夕には白骨となれる身かもしれず、人生の無常を感じてしまうけれど
「われ閉眼せば賀茂川へ入れて魚にあたうべし」といった親鸞の言葉もいさぎよく、美しい死に思えてくる。
他人の死に 不感症になってはいけない。
「我々はどこから来たか? 我々とは何か? 我々はどこへ行くのか?」
介護は老人の死をもって終焉となる。
介護や医療の現場にあると、死に慣れてしまいがち。
家族にとり、大切な人が亡くなった(いなくなった)、その悼みを共有できるかどうか
一人の老人の死をとおし、「人間とは何か」をみつめていくことにツナガッテいくのでは・・・・。
老いは「下り坂」のように言われるが
自分は老いは、ときには「登り坂」に思うことがある。
自ら躰の向きも変えることができず寝たきりに伏し
去る日も来る日も天井と壁をみながら過ごす老母。
食べることも水を飲むことも 躰は受けつけず、脚は曲がり
大根のように脚は浮腫み、身の置き場がない。
テレビの音にかき消されることもあるが
雨風や息子が台所で水を流す音が聞こえる。
音だけでなく生活の匂いもある。
壁の上には、夫の遺影が目に入り
「もう少しで私も逝くからね」と胸の内で呟く。
蓮如「「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
老いた人も若い人も関係なく、死は誰もが迎えるし起こりえることである。
老人だから先に死ぬ。子どもだから親の後に死ぬとは限らない。
死はいつ、訪れるか、それはわからない。
自分が今日死ぬかもしれない、と思いながら生きている人はいないが、
老い病み、夕には白骨となれる身かもしれず、人生の無常を感じてしまうけれど
「われ閉眼せば賀茂川へ入れて魚にあたうべし」といった親鸞の言葉もいさぎよく、美しい死に思えてくる。
他人の死に 不感症になってはいけない。
「我々はどこから来たか? 我々とは何か? 我々はどこへ行くのか?」
介護は老人の死をもって終焉となる。
介護や医療の現場にあると、死に慣れてしまいがち。
家族にとり、大切な人が亡くなった(いなくなった)、その悼みを共有できるかどうか
一人の老人の死をとおし、「人間とは何か」をみつめていくことにツナガッテいくのでは・・・・。