老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

人間観察の日

2020-08-23 20:24:34 | 阿呆者
1642 人間観察の日

明日は4時に起き beagle genkiの散歩を行い
 5時30分頃に我家を出る
 wifeが運転する車に乗り片道110㎞余り走る
 
 明日は自治医科大学附属病院外来受診の日で
 7時30分に受付をし採血・採尿・心電図検査を行い
 循環器内科、腎臓外科、皮膚科、感染症科の4つも受診となる
 
 大学病院の廊下ですれ違う外来患者予約者2600人余り
 それぞれの病や表情はいろいろであり
 長椅子に座りながら人間観察したりされたりの待ち時間
 マスクもいろいろであり マスク星人の世界に映る
 コロナウイルスだけが元気に
 地球という惑星のなかで繁殖し続け 
 人間を不安と恐怖に陥れている

 コロナウイルスに負けるな
 病に負けるな
 帰りのお土産は 
 袋がはちきれるほどの薬を手にして・・・・
 
 


老師と少年 ❺ ~神を信じるのだ?~

2020-08-23 06:27:45 | 老人と子ども


1641老師と少年 ❺ ~神を信じるのだ?~

【第四夜】
老師は、殺されるネズミを見て以来
不安がとりつき、不安の意味や正体がわからなかった。

大人にネズミの話をすれば忘れろと言われ、
死ぬとはどういうことかと聞けば、あの世や空の星の話になる。

少年の父は、こう言った。

「お前のように(死ぬこと、自分誰か等と)考え悩むのは苦労がないからだ。
楽をして暮らしているからだ。飢えや病に苦しむ人たちにくらべれば、実に
くだらない、贅沢な悩みだ」と。
(54頁)

確かに飢えや病は苦しいだろう。
しかし、ぼくも苦しいのです。
二つの苦しみは比べられないし、比べても意味がない。
二つの苦しみはそれぞれ「違い」、人により苦しみは個別的なものである。

老師は、「生きていくことの苦しさと、生きていることの苦しみは違うのだ」(55頁)
生は、困難な生であり、苦しい生だと思うが故に、生きていくことを選ぶ。


少年は見知らぬ人から手紙が届き、苦しみを救う神殿の聖者を紹介された。
少年は神殿に行った。
少年『聖者よ。人はなぜ死ぬのか。私とは何か』
聖者『お前は生まれる以前にすべてを知っていた。教えられたからだ』
少年『誰が⁉ 誰が教えたのです?』
聖者『(神)だ』
少年『生まれる前の私とは誰です?』
聖者『(神)の子だ。それが本当のお前だ』
少年『しかし・・・・・』
聖者『理解できまい』
少年『はい』
聖者『そうだ、これは理解することではない。信じるのだ。
   理解できないから受け容れられない。(神)はそれを罰する。
   ・・・・・(中略)・・・・(神)を受け容れず、その傲慢ゆえに
   (神)に罰せられたのだ。今お前が死の意味を知らず、真の自己
   を知らないのは、その罰ゆえなのだ』(59~60頁)

少年と聖者の問答を読むと、自分も少年と同様に
死の意味や私は誰であるか、を理解したかったが、それはできず、いまも苦しみが続いている。
神を信じることができない自分は寂しかった。

神を信じ受け容れることができない自分が在る。
他方では、困ったときに「神頼み」をする自分がいて、
頼みごと(お願いごと)は叶えられることは余りない。