昨日は帰宅後、テレビで
葉加瀬太郎×梅若玄祥の競演を拝見。
以下、敬称略で長文失礼。
なんだかもうひたすら、梅若玄祥すごい!すごい!と思って観てました。
まず、存在感が圧倒的。
立ってるだけでオーラがある。
歩いてるだけで物語が見える。
じっとしている姿にちゃんと意味が備わっている。
これが古典の底力なのか。
でも、その伝統の力に安住しない姿勢が素晴らしかった。
組曲のメインとなる謡と即興のコラボレーション。
あの場面で、言葉を生かしたいからほとんど動きをなくそう、
というのが、梅若玄祥の最初のアプローチで、
そこにすごく共感した。
敢えて動かない、むやみに詰め込まない、
そういう静の積極的な選択が古典の世界っぽいですよね。
でも、それに対して、葉加瀬太郎は動きがほしい。
しかも、蜘蛛の糸を投げたい、とか言っちゃう。
それも、わからなくはない。
彼は古典の世界とは全然違うところにいて、
おそらくほとんどの観客もそちら側で、
その人たちもきっとそういうのが見たいんだと思う。
そこで、あっさり断るという選択も梅若玄祥にはあったはず。
それができる立場の人だと思う。
でも、彼はその提案をきちんと受け止める。
妥協して受け入れるのではなく、プラスの提案を返す。
その姿勢が素晴らしいと思った。
柔軟さ。
もう十分にキャリアのある人の柔軟さ。
いや、もうほんと、偉そうなこと言うつもりじゃないけど、
すごく素敵だなと思った。
古典と西洋のコラボを見て最近感じるのは、古典の凄味。
特に、その声の力。
楽器の場合は簡単に相手に寄っていける部分があって、
それが逆に意味を薄めてしまってると感じる時もある。
異質なものが共存することで際立ってくるものが面白いなと。
もちろん、謡曲に即興で果敢に挑んでいく葉加瀬太郎も強者でした。
私だったら手も足も出ないな。
ところで、
そんなの邪道だーーと叱られるかもしれませんが、
能を古典のまま上演しつつ、照明だけすごく凝って、スモークたいたりしたら
なんか面白そう~ と思ってしまいました。
葉加瀬太郎×梅若玄祥の競演を拝見。
以下、敬称略で長文失礼。
なんだかもうひたすら、梅若玄祥すごい!すごい!と思って観てました。
まず、存在感が圧倒的。
立ってるだけでオーラがある。
歩いてるだけで物語が見える。
じっとしている姿にちゃんと意味が備わっている。
これが古典の底力なのか。
でも、その伝統の力に安住しない姿勢が素晴らしかった。
組曲のメインとなる謡と即興のコラボレーション。
あの場面で、言葉を生かしたいからほとんど動きをなくそう、
というのが、梅若玄祥の最初のアプローチで、
そこにすごく共感した。
敢えて動かない、むやみに詰め込まない、
そういう静の積極的な選択が古典の世界っぽいですよね。
でも、それに対して、葉加瀬太郎は動きがほしい。
しかも、蜘蛛の糸を投げたい、とか言っちゃう。
それも、わからなくはない。
彼は古典の世界とは全然違うところにいて、
おそらくほとんどの観客もそちら側で、
その人たちもきっとそういうのが見たいんだと思う。
そこで、あっさり断るという選択も梅若玄祥にはあったはず。
それができる立場の人だと思う。
でも、彼はその提案をきちんと受け止める。
妥協して受け入れるのではなく、プラスの提案を返す。
その姿勢が素晴らしいと思った。
柔軟さ。
もう十分にキャリアのある人の柔軟さ。
いや、もうほんと、偉そうなこと言うつもりじゃないけど、
すごく素敵だなと思った。
古典と西洋のコラボを見て最近感じるのは、古典の凄味。
特に、その声の力。
楽器の場合は簡単に相手に寄っていける部分があって、
それが逆に意味を薄めてしまってると感じる時もある。
異質なものが共存することで際立ってくるものが面白いなと。
もちろん、謡曲に即興で果敢に挑んでいく葉加瀬太郎も強者でした。
私だったら手も足も出ないな。
ところで、
そんなの邪道だーーと叱られるかもしれませんが、
能を古典のまま上演しつつ、照明だけすごく凝って、スモークたいたりしたら
なんか面白そう~ と思ってしまいました。