(草加宿) (19.Apr.2009.)
東武伊勢崎線「草加駅」東口に降りる。
「奥の細道」には、元禄二年(ふたとせ)に旅立ち
「その日、漸(ようや)く早加(=草加)と云(い)ふ宿(しゅく)に
たどり着きにけり。」とある。
日光奥州道中で第一の宿場が千住宿で、次が草加宿である。
草加宿は千住宿と越谷宿の
「間(あい)の宿(しゅく)」として寛永七年(1630)に設けられたという。
(当時の日光道中の千住と越谷の間は沼地が多く、
大きく迂回して通らねばならなかった。
そこで、宿篠葉村(現・松江)の大川図書(*)という人物が村民と共に、
茅野(かやの)(=かやの生えている野)を開き、沼を埋め立て、
それまで大きく迂回していた奥州街道をまっすぐにする
新道を開いたといわれています。
1606年(慶長11年)のことです。
このとき沼地の造成に沢山の草が用いられたことから
「草加」と呼ばれるようになりました。
その後、直線となった千住・越谷間に宿駅を設けることが
幕府によって命じられ、1630年(寛永7)に中間宿として、
新たに草加宿が日光道中第二の宿場として指定されました。)
とある。(草加市役所)
そうか(=草加) そういうことか、と納得。
駅を降りて目の前のロータリーを右に回り、
中央の道を進み二番目の信号を左折する。
これが旧日光奥州道中である。
信号右手先には埼玉りそな銀行があり、
左手先に草加道路元標が、場違いであるかのように頭を見せ、
その後ろに草加市役所が建てた「今様草加宿」の道標があるので、
その道標に沿って歩く。
この道を芭蕉と曾良が二人で奥州道中膝栗毛を楽しんだ道である。
やや前かがみで杖を持った僧の姿をした芭蕉の影絵が
「今様草加宿」に描かれている。
すぐ右側に八幡神社がある。
この神社には巨大な獅子頭が雌雄一対残されており、
草加市の指定文化財になっているらしいが普段は見る事ができない。
神社前にある狛犬が赤い舌を出しているのが珍しい。
宿場らしい古い呉服屋さんの店舗、蔵跡が、
工事中の養生シートに囲まれて建っている。
ご近所さんによると、古い建物を保存するらしい。
そのため工事に手間取っているという。
さらに先に進むと、草加小学校の手前の左側に氷川神社がある。
小さな神社であるが、中に書いてある縁起が面白く紹介したい。
「 平内さん(縁結びの神)
江戸初期の伝説的な人物で、夜な夜な辻斬りなど悪行を重ね、
自身の罪業消滅を願って自像を造って通行人に「踏(ふ)みつけ」させた。
これが後に「文付(ふみつ)け」に解され、
縁結びの神としてよく効く神様として親しまれ
拝されるようになった。」とある。
昔の信仰は時々馬鹿馬鹿しいと思うことがある。
罹(かか)れば70%の子供は死に至るという天然痘も、
疱瘡祠を建ててお祈りするより方法が無かった時代。
恋も思うようには行かず、特に男尊女卑の時代には、
女性が思いを寄せても言い出すことが出来ない時代。
手の打ちようが無い時代であれば
「縁結びの神」に祈るしかないのだ。
この時代、恋心を打ち明けるには、
恋文をそっと想う人の持ち物にしのばせる以外方法が無かった。
「恋文をそっとしのばせる」のを「文を付ける」といった。
もっとさかのぼって明治以前には、
恋心を、みそひと文字(短歌)に忍ばせておくる方法をとった。
これが縁となって結ばれることから「踏みつける」→「文を付ける」→
「縁結びの神」になったのであろう。
第二次大戦後男女同権の時代になっても、
長い間「男女七歳にして席を同ぜうせず」の考えが残っており、
男女が手をつないで歩くことは無く、
女性は三歩下がって男性の後を歩くのが普通で、
現代のように、「あなた好きよ!」と手をつなぎ、
キスをして「はい!出来ちゃった結婚です」なんて、
堂々とテレビの前で報告することは考えられなかった。
脱線はそのくらいにして、本題に戻す。
この神社は七福神の大黒様をお祭りしている。
ボクの一句、
・神様に 助けられたる 膝栗毛 (hide-bach)
(つづく)
(*)草加宿を開いた大川図書について
(大川図書は小田原の北条氏に仕え、土本氏を名乗っていたといいます。
1590年(天正18)小田原城落城によって浪人となり、
岩槻城主太田備中守のもとで年月を送っていたようです。
そして、徳川氏の天下統一の時、
谷塚村に居住することになったと言われています。
その後、新しい土地を求めて現・松江近辺に移り住むようになり、
草加宿や東福寺の建設に尽力をすることになりました。)(草加市役所)