(山吹の里の碑)

山吹の里は新宿区にあった。
東京に残る唯一の路面電車都営荒川線は江東区三ノ輪~新宿区早稲田を走っているが、
その終点早稲田駅の一つ手前の面影橋駅に「山吹の里」の碑はあった。
(都電 早稲田方面)

(早稲田方面の電車)

駅を降りると駅名の由来となった面影橋があるが、
その橋を渡った橋のたもとに「山吹の里」の碑がある。
今は道一本隔てて会社の入口に表題の碑がある。
(面影橋交差点)

(面影橋交差点2)

(面影橋の橋)

(面影橋下の神田川、姿を映せる)

(面影橋の橋名の由来は、高名な歌人である在原業平が、
鏡の様な水面に姿を映したためと言う説、
鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けた説、
近くに居た於戸姫(おとひめ)が、数々起こった悲劇を嘆き、
水面に身を投げた時、詠んだ和歌から名付けられたなどの説がある。)と言う。
そもそも新宿区には山吹町なる町名がある。
面影橋に隣接する町が早稲田、その隣が山吹町である。
ところが面影橋のある神田川の反対側は、
豊島区である。神田川が区境になっているようだ。
したがって山吹の里については、
豊島区教育委員会の説明になります。
(―前の部分省略―
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、
横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではない。
ただ神田川対岸の新宿区一帯は、
昭和63年(1988)発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、
鎌倉街道の伝承地などが集中しており、
中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、
面影橋のたもとにありましたが、碑面をよく見ると、
「山吹の里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、
この碑が貞享三年(1686)に建立された供養塔を
転用したものであることが解っています。)とある。
(碑面の細かい文字が読める)

上部には梵字の三文字が、「山吹之里」の文字にも重なって小さな文字が見え、
両横には家紋の下に、右側は(××丙寅 歳)、左側は(十一月)の文字が、
下部には弥勒菩薩であろうか半跏思惟像が刻まれている。
さて、太田道灌は江戸城築城で知られる。そして主(あるじ)であった。
と言うことは東京都知事みたいなものである。
だから、東京都の旧都庁には太田道灌の銅像が置かれている。
旧都庁は、ボクが東京に出てきたころは東京駅丸の内口、有楽町寄りにあった。
そして旧庁舎を写真で見る限り、東京駅(丸の内口)にそっくりである。
今は東京国際フォーラムガラス棟になっており、
その中に狩り姿の太田道灌が威厳を見せている。
(東京府庁舎跡ー旧都庁の跡の碑)

(戦前の東京府庁ー写真)

(参考:現在の東京駅丸の内口)

(東京国際フオーラムガラス棟の太田道灌―外から写す)

(内側の道灌)

(内側の道灌2)

東京都も旧庁舎にあった太田道灌の痕跡は残してあるが、
新庁舎、つまり新宿の新しい庁舎の方はどうだろう。
調べてみたら、都庁の隣にある中央公園の中に、太田道灌は居た。
滝のある広場を右の方に入った雑木林の中にあった。
しかも山吹をささげている女性もいるではないか。
(太田道灌のと狩り場で山吹をささげる女性)

(太田道灌の狩り装束)

(山吹をささげる女性)

しかも、太田道灌に差し出した山吹の一枝も扇の上に乗っているではないか。
山吹をよくよく見るとそれは八重山吹であることに間違いない。
彫刻をした人は、山吹が八重山吹だということを知っていたに違いない。
(ささげられた山吹)

・七重八重 花は咲けども 山吹の
実の(蓑)一つだに 無きぞ悲しき
この古歌の「七重八重」はやっぱり八重山吹で間違いなかった、と安堵した。
ところで、太田道灌の像は、東京にはこれだけに留まらず、
JR日暮里駅の前にも、これは馬上姿があると言うので、行って来た。
(日暮里駅前 馬上の道灌)

最後に、今話題の東京都庁の新宿にある庁舎の写真を掲載して置きたい。
(新宿にある東京都庁舎)

新宿の庁舎は太田道灌に負けない勇姿を見せている。
昔は太田道灌が都知事だったが、今度の都知事は誰が成るのだろうか?
興味深い・・・
新都知事に、山吹の一枝をプレゼントしようかしら・・・・

山吹の里は新宿区にあった。
東京に残る唯一の路面電車都営荒川線は江東区三ノ輪~新宿区早稲田を走っているが、
その終点早稲田駅の一つ手前の面影橋駅に「山吹の里」の碑はあった。
(都電 早稲田方面)

(早稲田方面の電車)

駅を降りると駅名の由来となった面影橋があるが、
その橋を渡った橋のたもとに「山吹の里」の碑がある。
今は道一本隔てて会社の入口に表題の碑がある。
(面影橋交差点)

(面影橋交差点2)

(面影橋の橋)

(面影橋下の神田川、姿を映せる)

(面影橋の橋名の由来は、高名な歌人である在原業平が、
鏡の様な水面に姿を映したためと言う説、
鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けた説、
近くに居た於戸姫(おとひめ)が、数々起こった悲劇を嘆き、
水面に身を投げた時、詠んだ和歌から名付けられたなどの説がある。)と言う。
そもそも新宿区には山吹町なる町名がある。
面影橋に隣接する町が早稲田、その隣が山吹町である。
ところが面影橋のある神田川の反対側は、
豊島区である。神田川が区境になっているようだ。
したがって山吹の里については、
豊島区教育委員会の説明になります。
(―前の部分省略―
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、
横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではない。
ただ神田川対岸の新宿区一帯は、
昭和63年(1988)発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、
鎌倉街道の伝承地などが集中しており、
中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、
面影橋のたもとにありましたが、碑面をよく見ると、
「山吹の里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、
この碑が貞享三年(1686)に建立された供養塔を
転用したものであることが解っています。)とある。
(碑面の細かい文字が読める)

上部には梵字の三文字が、「山吹之里」の文字にも重なって小さな文字が見え、
両横には家紋の下に、右側は(××丙寅 歳)、左側は(十一月)の文字が、
下部には弥勒菩薩であろうか半跏思惟像が刻まれている。
さて、太田道灌は江戸城築城で知られる。そして主(あるじ)であった。
と言うことは東京都知事みたいなものである。
だから、東京都の旧都庁には太田道灌の銅像が置かれている。
旧都庁は、ボクが東京に出てきたころは東京駅丸の内口、有楽町寄りにあった。
そして旧庁舎を写真で見る限り、東京駅(丸の内口)にそっくりである。
今は東京国際フォーラムガラス棟になっており、
その中に狩り姿の太田道灌が威厳を見せている。
(東京府庁舎跡ー旧都庁の跡の碑)

(戦前の東京府庁ー写真)

(参考:現在の東京駅丸の内口)

(東京国際フオーラムガラス棟の太田道灌―外から写す)

(内側の道灌)

(内側の道灌2)

東京都も旧庁舎にあった太田道灌の痕跡は残してあるが、
新庁舎、つまり新宿の新しい庁舎の方はどうだろう。
調べてみたら、都庁の隣にある中央公園の中に、太田道灌は居た。
滝のある広場を右の方に入った雑木林の中にあった。
しかも山吹をささげている女性もいるではないか。
(太田道灌のと狩り場で山吹をささげる女性)

(太田道灌の狩り装束)

(山吹をささげる女性)

しかも、太田道灌に差し出した山吹の一枝も扇の上に乗っているではないか。
山吹をよくよく見るとそれは八重山吹であることに間違いない。
彫刻をした人は、山吹が八重山吹だということを知っていたに違いない。
(ささげられた山吹)

・七重八重 花は咲けども 山吹の
実の(蓑)一つだに 無きぞ悲しき
この古歌の「七重八重」はやっぱり八重山吹で間違いなかった、と安堵した。
ところで、太田道灌の像は、東京にはこれだけに留まらず、
JR日暮里駅の前にも、これは馬上姿があると言うので、行って来た。
(日暮里駅前 馬上の道灌)

最後に、今話題の東京都庁の新宿にある庁舎の写真を掲載して置きたい。
(新宿にある東京都庁舎)

新宿の庁舎は太田道灌に負けない勇姿を見せている。
昔は太田道灌が都知事だったが、今度の都知事は誰が成るのだろうか?
興味深い・・・
新都知事に、山吹の一枝をプレゼントしようかしら・・・・