楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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     ・おくのほそ道を歩く

尿前(しとまえ)の関(芭蕉の道を歩く 63)

2016年07月23日 06時04分57秒 | 芭蕉の旅
仙台から石巻へ、そして平泉へ旅した芭蕉が、
次に訪ねたのが「尿前の関」であった。

(足湯が出きる鳴子温泉駅)

(奥の細道【23】小黒崎・尿前の関・封人の家)
ここで芭蕉は次のように述べている。

「南部道遥(はるか)に見やりて、岩手(いわで)の里に泊る。
小黒崎(をぐろさき)・みづの小島(をじま)を過ぎて、
なるご(鳴子)の湯より尿前(しとまえ)の関にかかりて、
出羽の国に越えんとす。此の路旅人稀なる所なれば、
 関守(せきもり)にあやしめられて、漸(ようよう)として関を越す。」
と述べている。

鳴子温泉から出羽の国(山形)へ抜けるのに、
国境の警備にあたる関所を通る必要があった。
ところがあまりに山奥で、人が通るのが稀なため、
関守(関所のお役人)に怪しまれて、なんだかんだと詰問され、
やっとの思いで関所を越えることが出来たと言っている。

(尿前の関)

ここでいう岩手の里は、宮城県玉造郡岩出山町であったが、
現在は大崎市岩出山で、ここで芭蕉は一泊している。

仙台からバスで鳴子温泉に行く途中に岩出山町はある。
バスで通り過ぎるとき、
道路端に「奥の細道芭蕉一泊の地」の案内看板が立っていた。
ここを過ぎてJR川渡(かわたび)駅に至る右側に小黒崎はあった。
車窓から写真を撮ったが、緑深い小黒崎であるが、ボクには
なんの変哲もない普通の山にしか見えない。

(車窓から見た小黒崎)

ボクにはどうしてここが名所で、
古くから歌枕になっているのか理解に苦しむ。
あるいは、ボクの写真の撮り方が悪くて、
新緑と紅葉がとても美しい場所と表現できないだけかもしれない。

美豆の小島は左手に案内板があったが、
残念ながら森の向こうの川の中にある小島と言うことで、
見ることは叶わなかった。

仙台駅からホテルまで90分かかると言うので、
途中トイレ休憩でドライブインに寄った。
東北大震災からすでに五年も経つというのに、
「復興へがんばろう宮城」のスローガンが掲げてあった。
仙台駅も自動車で通る道の両側も、
震災の爪痕を感じることはできない。

周囲は田園と山林で囲まれているせいか、
そのドライブインでは木工の人形がお出迎え、
中に読書中の人形、音楽隊の人形はユニークであった。
読書中の人形の読んでる本がお見事。

「楽して幸福になる道はありや無しや?」

次のページに、

有るかも 無しかも

(復興へ頑張ろうのスローガン)
(音楽隊の人形達)
(読書の人形)
(人形の読む本は)

やがて、目的の温泉ホテルに着いたが、温泉に入りに来たわけでなく、
ボクは「尿前の関」と「封人の家」を観たいのだ。

ここから西に向かって宮城から山形に向かう山が連なり、
通称奥羽山脈が県境になっている。
秋田と岩手の堺、山形と宮城の堺がこの山脈で分けられている。
その山脈の宮城県側には「尿前の関」が山形県側には「封人の家」が、両県境にある。

(鳴子温泉駅)

ここで鳴子温泉の地名の由来を記しておきたい。
地名の由来は二説あります。
火山活動の天地を揺るがす音から「鳴声」「鳴郷」と呼ばれたこと。
もう一つは、鎌倉を追われて平泉へ向かう源義経が、
我が子・亀若丸の産湯を使ったという説です。
産湯に入れられた亀若丸が、初めて産声を上げたことから、
「啼子」の湯と呼ばれ、
やがて現在の鳴子に変わったと言われています。(鳴子町史より)



先ずは、鳴子温泉駅まで行き、そこからタクシーで「尿前の関」を訪ねる。
運転手さんに

「帰りは徒歩で帰りますので、
歩いて帰れる道順で車を走らせてほしい」と依頼。

およそ距離は2kmであるが、江合川(荒尾川)に沿って、
国道47号線とJR陸羽東線が走っている。
奥羽山脈の最低部を流れる江合川に沿って、
先ず、陸羽街道が出来、線路が敷かれ、自動車道路が出来た。
そんな場所だからこそ関所「尿前の関」が出来たのであろう。

(尿前の関の碑)

元慶(がんぎょう)の乱(878)年の後、出羽と陸奥の境目にあり、
軍事上の要所である尿前に、岩手の関が設けられ、
寛文10年(1670)改めて、尿前境目番所を設け、
往来を厳しく取り締まった。

(*)元慶の乱は、878(元慶2)年3月に秋田県北部の蝦夷(えみし)が、
   秋田城駐在国司の苛政(かせい)を訴え、秋田城などを焼き打ちした事件である

(尿前の関の内側)
(関所内の芭蕉の像)
(往時の関所の図)

尿前の関横の通りは出羽街道が石畳で整備されて、
「おくのほそ道(出羽街道)遊歩道」となっている。
その隣には、往時の出羽街道ー草の茂った道が、
文字通り鬱蒼とした森に囲まれ山を登っている。

芭蕉は、「おくのほそ道」で出羽の国へ出るのに、
出羽街道を、
「高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、
 夜行くがごとし・・・」と述べている。
この感じがよく出ている出羽街道であるように思う。

(関所脇の出羽街道の整備された石畳)
(関所脇の出羽街道の整備された石畳2)
(往時のままの出羽街道)

そのわきに芭蕉句碑と消えかかりそうな標識があり、
森の奥を覗くと、
自然石の句碑が、石積み台の上に建てられているのが見える。
句碑の表面は文字を読むことが出来ず、
裏面はかろうじて読むことが出来るのは、

右側下に: 尿前連中

中央に: 蚤虱
       馬の尿する 
           枕もと

左側に: 明和五××六月十二日 建

と刻まれている。
明和五年といえば1768年に建てられたもので、
芭蕉が通ったのが元禄二年(1689)であるから、
芭蕉が通過80年後に建立されたものだ。

(芭蕉句碑の案内杭)
(芭蕉句碑)
(句碑裏面の「蚤虱・・・」の句読めますでしょうか)

見学を終えて帰路に就く。

(関所前の登り坂)
(坂を昇る途中、左手にみえる江合川に架かる橋。)
(鳴子峡)
(こけし資料館)

この後、鳴子温泉駅から山形方面へ堺田駅に向かう。
コメント (10)
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