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(縁きり榎)
中山道を歩き、各宿場で史跡ガイドを受けると、
「どちらからお出でですか?」と聞かれる。
その人の住まいに関係のある事柄が、
これから始めようとしているガイドの中にあるかを考えるからであろうか?
あるいは興味を何処に持っているのかを打診しているのかもしれない。
「東京の板橋から」といつも答える。
日本橋をスタートして板橋が中山道の第一の宿場であることをガイドをする人は知っている。
続けて「日本橋から三つ目の一里塚」の近くに住んでいます」と言うと、
「志村の一里塚ですね」と返事が必ず帰ってくる。
国の指定史跡になっているからである。
一通りガイドが終わって聞かれることは
「板橋の地名の由来となった板の橋はまだありますか?
それと縁切り榎はあるのですか?」
この二つは必ず質問される。
「板の橋はもうありませんが、板に似せたコンクリート製の橋が残っています。
そのすこし京都よりに三代目ですが(縁きり榎)もありますよ」とお話しする。
その縁切り榎については次の通りに書いた。
《皇女和宮の折は、榎のまわりを覆い、
見えないようにして通行した、といわれる。
しかし、和宮以前にも降嫁した皇女-五十宮(いそのみや)、
樂宮(ささのみや)は、「縁切り榎」を避けて通行したので、
中山道の迂回路があることを考え合わせると、
皇女和宮も迂回したのではないかと、意見は二つに分かれる。》と。
そして皇女和宮のときも約1キロの迂回路整備のためにお金が下げ渡されている史実から、
和宮もその迂回路を通過したというのが正しいということに現在はなっている。
しかも「榎を菰で覆ってかつ迂回路を通った」ということになっている。
つい最近になり、縁切り榎について、皇女和宮は浦和から川口を抜け、
御成り道を経由して板橋に入ったとの記述のある新聞記事があるのを見つけた。
過ぎ去ったことで、どこをどう通ろうとどうでも良いことであるが、
紹介しておく。(つまり本当のことは何も解らないと言うことか。)
朝野新聞の明治26年7月12日付に次のような記述があることを発見した。
原文は少し長いが要約して記載する。
(なお、朝野新聞は廃刊になっているが、当時は有識者に購読された
近代ジャーナリズムの草分け的存在であった新聞とのもっぱらの評がある。)
『五十宮(いそのみや)降嫁のおり巣鴨原町一丁目角左衛門店(だな)
源右衛門ほか一人から差し出した注進書にかかれていた文面は以下の通りである。
《この度、五十宮様入府遊ばされるお道筋は中山道下板橋通りと聞き及んでおります。
この道筋についてご注進申し上げます。
この宿はずれの下板橋の岩の坂にある近藤登殿下屋敷の垣根際に
榎槻(えんつき。槻=けやきのこと)一所に生えて数年が経ち、
とくに大きな木があります。
いつの頃からか解りませんが、誰言うと無く(榎槻岩の坂)を
(えんつきいやの坂)と言うようになり、
ここを縁談のある女性や婿入りが決まっている男性が通れば、
必ず縁が短いと言われております。
近所の人たちは言うまでも無く、
縁組のあるものは一切通りません。
木の前に注連縄(しめなわ)などを張り、
この近辺の者たちはこの内容を良く知っておりますが、
何分下々の俗世間で申すことですので、
このことを申し出ること恐れ多いことですが、
ひとえに宮様の幾久しいご繁栄を願ってことで、
恐れ多いことでございますが以上ご注進申し上げます。》
以上の通り注進したため源右衛門外一人は
(五十宮様ご到着のお道筋のことを注進したことは奇特なことである)
ということで銀一枚ずつ賜った。そして同宮様の道筋は、
浦和宿の後、川口より日光御成り道に変更された。
その後楽宮(ささのみや)、和宮様ご降嫁のときもこの例に倣って日光道より江戸に入った。』
(朝野新聞明治二十六年七月十二日)とある。
(和宮ご降嫁からたかだか34年後の新聞記事であることから、
事実に相違ないと思われるが、事実は闇の中である。
しかし、昔の新聞はそれ以前は「かわら版」であったことから、
興味本位に書かれた物語風であり、一概に信じられないという見方もある。
現代風に考えれば、美智子様が馬車で通られた道筋を、
いかに面白おかしく物語風に書いたからといって、
いやしくも新聞が間違って記載することは考えにくい。
この新聞通りであるとすれば、
和宮様の通過は、縁切り榎の前はおろか縁切り榎を避けるために整備された
約1キロの迂回路も通らず、
川口から日光御成り道を通って板橋宿に入られたかも知れない。
しかし、一方で皇女和宮は徳川家に嫁いで、
家茂との結婚生活の期間が短かく、縁が薄かった事を考え合わせると、
あるいは縁切り榎の下を通ったのかもしれない。)
とボクは勝手に想像を逞しくしております。
いずれにせよ、和宮様が旅の最後に宿泊した板橋宿の脇本陣跡の近くに、
日光御成り道に通じる御成り道があるようですので、
和宮様のお輿はこの道を通り抜けて来たという足跡が何処かにないかと、
いつか機会を見て歩いてみようと考えております。
なお、余計なことであるが、
和宮様下向の際に沿道に出された禁止事項(板橋区教育委員会資料による)は以下の通りで、
13.にあるように、目障りなものにはよしずやむしろで覆えとあるから、
縁切り榎にも覆いをかぶせた事は間違い無さそうである。
1.公私領の別無く、通行の前後3日は旅人の通行を禁止する。
2.往来の草深い箇所は刈り込み、2日まえんから掃除をして置く事。
3.海道の立ち木の枝は日傘に触らないように刈り込むこと。
4.通行時、家屋の前には盛り砂をして、水を入れた桶を置くこと。
5.宿場の2階屋は、雨戸を閉じ、看板や暖簾は外しておくこと。
6.通行時は、店の土間にむしろを敷き、平伏すること。
7.商い物は片付けるかよしずをかぶせること。
8.足袋わらじなどを軒先で売らないこと。
9.農家の軒先に竹木を立てかけておかないこと。
10.通行時近くの寺の鐘は鳴らさないこと。
11.通行の二日前から鳴り物を鳴らさないこと
12.通行時は煙を立てないこと。
13.目障りなものは、よしずやむしろで覆うこと。
14。男は裏手に居ること。

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この禁止事項の一環かどうか解らないが、
塩尻の中山道沿いの農家では、家の縁先に柵を作らされ、
それより前面に出ることを禁止されたと言う。
住居のおばあちゃんがその柵に付いて、
子供に言い伝えたその柵が現在も残っている
と言うのは面白い。

(信濃の中山道沿いにある旧家。右奥に見える柵)

(柵の向こうは式台で昔は玄関だったという。お駕籠が乗り付けられるほどの広さがある。)
あそこの埼玉物流センターや千葉の子会社などは私が
戸田で立ち上げた物流会社のお得意さまですよ。
志村の工場には板橋区の運送会社が昔から入っていますのであまり出入りしないことにしています
でも本社機能が志村にありますので私も月に2度~3度ぐらいは営業訪問をしていましたね。
縁切り榎というのはどういうものですか?
何かいわれがあるのですか?
語呂合わせの「縁が尽きる」ですね。
わざわざ御注進する事柄になるところが
物の怪を恐れる、社会風土の時代を思わせます。
久しぶりです。
北アルプスの麓も大分雪が消え、
土手や田んぼの畦が見えるようになった場所も有ります。
お日さまは有り難いですね。
北アルプスの麓は梅の木があまりないんです。
生り物は寒さゆえあまりならなかった場所ですから。
いつも ありがとうございます♪(*'-^)-☆
オリエンタル酵母工業だとすぐ判りました。
第一部上場会社の割りに、経理がずさんなのか、
面倒で断ったのか、
板橋区の仕事で(定年後のバイトで)売り上げなどの調査にお邪魔したとき、
決算が出来ていないからと断られました。
一部上場会社が、月次決算をしていないなんて考えられない、
もしそうなら経理の怠慢と、反論したかったのですが、
定年後のバイトですから、静かに引き下がってきましたが、
対応の仕方で、会社の良し悪しが分かりますね。
巡り巡って大口ユーザーになるかもしれないのに(冗談)
ボクの書き方が悪かったのでしょう、
文中にその理由が書いてありましたのに・・・
気をつけます。
歴史になるそうです。
通達では、14番男は裏手にいること。
が面白いですね。
見た目の良い男がいると、和宮は心変わりしたのでしょうか?
それでも沿道住民は大歓迎~世紀の政事に大感動でしようね。
田舎の祭時に生かされているものもありますね。
子供の頃の神社際に
大名行列が~神主が後方馬にのり
前方はしたにしたにと叫び進む行列〔叫ぶ人は先頭~よく通る良い声〕
行列はみな男~進む道に砂をまいていた記憶があります。
蛙の鳴き声が聞こえるのも間近かですね。
最近はIR情報はホームページか東証内の説明会で公開するようになっていますから
インサイダーにならないように、やんわりとお断りしたんだと思いますよ。
オリエンタル酵母は数年前に親会社の日清製粉に吸収合併されましたから
親会社の了承がないと経理内容は公開できないかもしれませんね。
PCで検索しても日清製粉のホームページでしか閲覧できないようになっていますよ。
事業内容などは今でもOYCと検索したらオリエンタル酵母で見れますが
経理内容は全て日清製粉の方を閲覧ねがいますとなっていますから。
昔の得意先なので少しだけ弁護したコメントになりましたがご容赦のほどお許し下さいませ。