5/29付けで、次のようなブログを書いた。
《(吉水院門前と「天莫空勾践時非無范蠡」の十文字)

門前右手に「天莫空勾践時非無范蠡」と、
児島高徳の有名な十文字の漢詩がある。
この十文字は、
「天(てん) 勾践(こうせん)を空(むな)しゅうすること莫(なか)れ、
時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず」と読む。
これは後醍醐天皇が元弘の変に敗れ、隠岐の島に流される途中、
忠臣 児島高徳が桜の木に刻んだ十文字の漢詩。
後醍醐天皇と忠義の家来 児島高徳の間にこそ理解が出来る漢詩で、
これを伝え聞いた後醍醐天皇は、感動に莞爾として微笑まれたと言われる。
このいきさつは、「太平記」に詳しいと思われる。
また。十文字の漢詩は、中国の春秋時代、
越の国王・勾践と忠臣范蠡の臥薪嘗胆の故事になぞらえて作った詩で、
その史実は、中国春秋の時代(紀元前405年から約370年間)の事らしい。》
話が少し長くなるが、悠久の中国歴史の事、我慢頂きたい。
中国の春秋時代、呉の国と越の国が争い最初は呉が負けた。
呉の国は越の国に破れ呉王は殺された。
息を引き取る前に、息子の夫差を呼んで、
(夫差よ、お前の父は越王・勾践に殺されたことを忘れるな。)
と言い残して果てた。その時王子の夫差は、
(三年以内に、越の国に勝ってみせます。)と答えている。
その気持ちを忘れないように、柔らかい蒲団の上で寝ないで、
薪(たきぎ)の上に起き臥しをした、と言う。
これが臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の「臥薪」の意味だ。
月日が経ち、
内政を整へ呉の国は富国強兵に努めた。
これを見た越王・勾践は、呉国を完膚無きまでに叩こうと、
兵を進めたが、強兵の呉にかなうはずもなく、
越王・勾践は、雲霞のような呉の大軍に囲まれ
惨敗し捕虜となった。
今度は越王・勾践の首が飛ぶ時である。
勝者は敗者の首を刎ねるのが決まりになっていた。
しかし勝者の呉王・夫差は敗者の越王・勾践の首を刎ねなかった。
それは越の忠臣・范蠡が手を回しておいた絶世の美人・西施が、
呉王・夫差に進言して、勾践の命だけは助けられた。
実は、この美人・西施は越王・勾践の家来・范蠡が
呉国に送り込んだ内通者(=スパイ)であった。
こうして今度は越王が呉に復讐する番である。
越王・勾践は部屋に肝(きも)を吊るし、坐臥するするたびに、
必ずこの肝を舐めた。
呉の国を破る復讐心を忘れないためである。
肝は苦い。
その苦味が復讐心をあおったのである。
これを臥薪嘗胆の「嘗胆(しょうたん)」という。
しかし呉王・夫差は、越王・勾践を許す代わりに、
越の忠臣・范蠡を人質に取った。
こうすれば越の国は立ち上がれまいと考えたからだ。
所が、范蠡は越王・勾践に自分のいない間の内政や軍事について、
事細かく王に進言して、人質となった。
越王は呉王の臣下のように振る舞いながら、
越国を治め強国へと導いた。
やがて、范蠡の内通者西施が呉王に進言して、
范蠡を越国に生還させた。
呉王・夫差は覇者を気どり、あっちこっちに出兵し、
国力が衰えた時、越国から戦火が上がり、
呉国が敗戦し越王は呉王の首を刎ねた。
ここまでは中国の歴史書「史記」に書かれている。
児島高徳が書いた十字の漢詩は、
(范蠡は呉に敗れた越王・勾践を助け、呉を滅した忠臣で、
天は勾践を見捨てない、時がくれば范蠡のような忠臣が出て助けてくれる。
南北朝時代、児島高徳(こじまたかのり)が捕らわれの後醍醐天皇に、
自分の志を示すため桜の幹に書いたもの)である。
十文字の漢詩は、
「天莫空勾践時非無范蠡」で、
「天 勾践を空しゅうするなかれ、時に范蠡無きにしも非ず」と読む。
後醍醐天皇を「越王・勾践(こうせん)」になぞらえ、
児島高徳自らを「勾践」の家来「范蠡(はんれい)」に例えた詩である。
「後醍醐天皇、もはやこれまでと諦めることはありませんよ、
范蠡のような忠義の士が居ないとも限りません」の意味であろうか。
《(吉水院門前と「天莫空勾践時非無范蠡」の十文字)

門前右手に「天莫空勾践時非無范蠡」と、
児島高徳の有名な十文字の漢詩がある。
この十文字は、
「天(てん) 勾践(こうせん)を空(むな)しゅうすること莫(なか)れ、
時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず」と読む。
これは後醍醐天皇が元弘の変に敗れ、隠岐の島に流される途中、
忠臣 児島高徳が桜の木に刻んだ十文字の漢詩。
後醍醐天皇と忠義の家来 児島高徳の間にこそ理解が出来る漢詩で、
これを伝え聞いた後醍醐天皇は、感動に莞爾として微笑まれたと言われる。
このいきさつは、「太平記」に詳しいと思われる。
また。十文字の漢詩は、中国の春秋時代、
越の国王・勾践と忠臣范蠡の臥薪嘗胆の故事になぞらえて作った詩で、
その史実は、中国春秋の時代(紀元前405年から約370年間)の事らしい。》
話が少し長くなるが、悠久の中国歴史の事、我慢頂きたい。
中国の春秋時代、呉の国と越の国が争い最初は呉が負けた。
呉の国は越の国に破れ呉王は殺された。
息を引き取る前に、息子の夫差を呼んで、
(夫差よ、お前の父は越王・勾践に殺されたことを忘れるな。)
と言い残して果てた。その時王子の夫差は、
(三年以内に、越の国に勝ってみせます。)と答えている。
その気持ちを忘れないように、柔らかい蒲団の上で寝ないで、
薪(たきぎ)の上に起き臥しをした、と言う。
これが臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の「臥薪」の意味だ。
月日が経ち、
内政を整へ呉の国は富国強兵に努めた。
これを見た越王・勾践は、呉国を完膚無きまでに叩こうと、
兵を進めたが、強兵の呉にかなうはずもなく、
越王・勾践は、雲霞のような呉の大軍に囲まれ
惨敗し捕虜となった。
今度は越王・勾践の首が飛ぶ時である。
勝者は敗者の首を刎ねるのが決まりになっていた。
しかし勝者の呉王・夫差は敗者の越王・勾践の首を刎ねなかった。
それは越の忠臣・范蠡が手を回しておいた絶世の美人・西施が、
呉王・夫差に進言して、勾践の命だけは助けられた。
実は、この美人・西施は越王・勾践の家来・范蠡が
呉国に送り込んだ内通者(=スパイ)であった。
こうして今度は越王が呉に復讐する番である。
越王・勾践は部屋に肝(きも)を吊るし、坐臥するするたびに、
必ずこの肝を舐めた。
呉の国を破る復讐心を忘れないためである。
肝は苦い。
その苦味が復讐心をあおったのである。
これを臥薪嘗胆の「嘗胆(しょうたん)」という。
しかし呉王・夫差は、越王・勾践を許す代わりに、
越の忠臣・范蠡を人質に取った。
こうすれば越の国は立ち上がれまいと考えたからだ。
所が、范蠡は越王・勾践に自分のいない間の内政や軍事について、
事細かく王に進言して、人質となった。
越王は呉王の臣下のように振る舞いながら、
越国を治め強国へと導いた。
やがて、范蠡の内通者西施が呉王に進言して、
范蠡を越国に生還させた。
呉王・夫差は覇者を気どり、あっちこっちに出兵し、
国力が衰えた時、越国から戦火が上がり、
呉国が敗戦し越王は呉王の首を刎ねた。
ここまでは中国の歴史書「史記」に書かれている。
児島高徳が書いた十字の漢詩は、
(范蠡は呉に敗れた越王・勾践を助け、呉を滅した忠臣で、
天は勾践を見捨てない、時がくれば范蠡のような忠臣が出て助けてくれる。
南北朝時代、児島高徳(こじまたかのり)が捕らわれの後醍醐天皇に、
自分の志を示すため桜の幹に書いたもの)である。
十文字の漢詩は、
「天莫空勾践時非無范蠡」で、
「天 勾践を空しゅうするなかれ、時に范蠡無きにしも非ず」と読む。
後醍醐天皇を「越王・勾践(こうせん)」になぞらえ、
児島高徳自らを「勾践」の家来「范蠡(はんれい)」に例えた詩である。
「後醍醐天皇、もはやこれまでと諦めることはありませんよ、
范蠡のような忠義の士が居ないとも限りません」の意味であろうか。
日本人がこれを読みやすくした新十八史略という小説もあり私の書棚に三十年ぐらい眠ってますかな。
後醍醐天皇は自ら平安時代の醍醐天皇を模範にして
後醍醐天皇と名乗られたそうですね。
普通は天皇のお名前は崩御されてから付けられるそうですがこれは珍しい例だと聞きました。
普通は当時の通例なら後醍醐院と名乗るのを自ら天皇名を生前から使用されたそうです。
この言葉について、解説しています。
http://www.geocities.jp/sybrma/191kojimatakanori.syouka.html
あと、申し訳ありませんが、私のHPでご教示願いますか?
みなりん拝
作り話だという説があるようですね。
それにしても三国志の時代、日本は
縄文時代だったみたいですね。
縄文時代は紀元前と記憶していますが、
これと呉越の時代は重なりますね。
ボクには意味が解りませんでしたが・・・
しかし昭和戦前に到るまで臥薪嘗胆とともに
教育にも取入れられたのですね。
中国とはいま良い関係にありませんが
学ぶべき史実は多いですね。
中国の歴史書が、日本人の心理形成に与えた影響度合は計り知れないです。
戦後も何十年も経ってから先輩が懐かしんで歌っていました。
記憶と共に思い出しますね。